砂糖、塩、コショウ、醤油、味噌、酢、酒。
味覚に置き換えてその感覚の全てを表そうと思っても言葉が足らない。醤油の辛さと唐辛子の辛さは違う。
砂糖の甘さと白味噌のほんのりとした甘みや酒の匂いに宿っている甘さも分類が違う。
調味料と呼ばれる多種多様な物と、素材というこれもまた多種多様なものを組み合わせ、人の味覚に合ったものを作り出す、 それを行う人はきっと特別な才能があって、見た目良く仕上げて食欲をそそるように出来るのも特別なことだと思っていた。 だが、そんなことはなかった。

ひときわ美味しいものを望まず、馬鹿高い食材ばかり求めず、 それなりの食材を売られている料理本の通りに作れば無難に“美味しい”飯というものは自分の手でも作り出せる。



帰りに食材を買い、今日初めて本格的な料理に手を出してみて出来上がった食卓を前にして 吉良は今日の夕食に及第点を出すことにした。 白米はちゃんと芯など残らずに水分を含み、かといってお粥のようにはなっていない。 しっかりと、米の分量を量り、米が砕けないように優しく洗い、釜の目盛りの通りに水を入れたからだ。 鯵の干物も頭と尻尾の辺りはカリカリに焼け、身の部分はふっくらとして良い季節に干物になったのか油が滲み、箸を入れたら湯気が出てきてくれそうに温かい。料理本に乗っていたきんぴらもピリッとしてアクセントとしては申し分なく、味噌汁も良い。 顆粒のもとではなく鰹節で出汁を取った。具は細く切った大根。

包丁は慣れていないと手を切ってしまうそうだが、気をつければどうということはなかった。 小さいころサマーキャンプでも何度か握ったことがあったからかもしれないし、近頃、料理以外でもふるっていたからかもしれない。 でも、ブランクがあることは確かなので今日は皮むきは予め四つに切った小さくなった状態でおこなった。かつら剥きはもう少し慣れてからすることにする。 自分の一部でしかない“手”だが、切ってしまった時、痛いから。

見た目も謙遜なくそれなりのものが出来ていた。
けっして難しくなく、料理の本も初めのビギナー向きからちょっと難しげであるような節の部分も読んでみたが見た目、難解さに欠けているように思った。 もっと難しいような気がしたがそうでもなかったな。というのが本音であり、万年の納得だった。 吉良にとって珍しい事ではない。やっていればかつら剥きも難しくなく出来るようになるのだろう。



父が死に、つられるようにして母親が老けこんで、ついに病院に入ることになって自宅は吉良だけの家になった。 床に伏せた母は我が子を心配して「ご飯を作らなきゃあの子がお腹を減らしてる」と病室で騒ぐわけだが、 現実、大学生の吉良が素直に飢餓するはずもなく、まずは弁当を購入し、次に惣菜を選んで賄っていた。 しかし、そればかりだと飽きが来る。今までの食事とは少し違った新鮮な味も慣れるし、売上優先の万人に受ける味っていうのは強いて健康に悪い事が多いのだ。

じゃあ、作るか。

母が入院して三日目だった。
台所は母の領域だったが、認めるのは苦いが自分と似て神経質な母だったので必要な物の場所は直ぐに分かった。 今日はハズレでひたすら脂っこい惣菜の天ぷらを捨てながら、それぞれの調理機器の場所を確認してできそうだと明日食材を買ってこようと決めた。 和食がいいなと思った。一度覚えれば色々応用が利きそうだから。 明日病院に持っていく母親の着替えを用意して、吉良は購入する食材の目録を考え、それなりに基本的なものをすることにした。

そして、食事が終わった。

謙遜無く、普通に美味しかった。
なんだ、出来るんじゃあないか。良くある感覚で吉良は納得をした。

吉良は器用な気質を持っていた。やろうと思えば何だってやれた。 けれど称賛されて敵が出来るのが嫌であって、だからと言って落ちこぼれて怒られて惨めになるのも嫌だったので、少しだけ手を抜く癖があった。 結果が3位に入賞したトロフィーや賞状の山だった。 これだって朝礼で体育館の高いところに登らされて、2位の奴の隣で笑むのも悔しがるような表情もどちらを浮かべれば目立たないか悩んだ。 しかし、料理は自分しか食べないのだし拘っても誰も何も言わないし、家でやるぶん目立つ事もない。 調理中使っていた本を開き、考える。鼻歌まで出ているが家には誰もいない。明日は何にしようかな。

静かな自宅にチャイムの音が響いた。

「こんばんわ」とまだ制服を着たままの女子生徒が鍋を抱えて立っていた。見覚えはある。
今年、中学に上がるらしい隣の家の女の子。

「こんばんわ」

何かな?と人当たり良く訊いてやると恥ずかしそうに目を瞬かせ「これ」と鍋を差し出してくる。

「母さんが、吉良さんのお母さんが入院してしまって大変だろうからって、
 私、今丁度帰ってきたところで「丁度いいから持ってってくれ」って」

「なんだろう?カレーかな?この匂いは?」

そうです!と正解とばかりに彼女は答えた。

「けれど、今日は」

もう、食べてしまったんだよ。と困った声音で言いかけて吉良は鍋の手を掴んでいる幼い手を見た。
まだ、丸みを帯びて小さい手に桜色のつるっとした短く切られた爪がのっている。
母親に言いつけられて鍋を持ってきたと言っているが、あんまり手伝いをしない子なのか、肌が綺麗で白い。
するり、と手を伸ばして鍋を受け取る動作をして、わざともたつき“彼女”ごと握った。
“彼女”は震え、汗ばんでいる。やわらかく、いつもと違って暖かい。しかし、まだ幼い。
何事もなかったかのように鍋を受け取り終わって見ると、女の子は目を見開いて顔を真っ赤にして凝視していた。

「ありがとう。でも、鍋を返すのは明後日でも大丈夫かな?」

「は、はい!多分」

「それとも、なにか容器に入れて鍋だけ返そうか?」

「いえ!」

もう、帰らせてくださいとばかりに答えて降参して彼女は引き返していった。
明日の夕飯はカレーに決まってしまったな、と少し残念に思いながら吉良は戻ってきて、“彼女”の握っていた鍋の取っ手を撫でる。 まだ幼い。でも、成長したらどうだろうな、と考えてみる。
でも、吉良はあの“彼女”を手に入れることはないだろう。あの子は“近所”だから。 上手くして逮捕はされなくとも警官に近所ということで事情聴取されるのはうんざりだと思った。 “彼女”だってなにも一人じゃあない。妥協したって全体的に綺麗で問題ない子が良い。料理と同じに。

鍋をコンロの上に置き、中身を見てみると平凡そのもののカレーで吉良は満足し、明日まで蓋を閉めて置くことにした。 カレーは一晩置いたほうが美味しい。そういうよく言われる平凡な事を思って、 この量だと一回じゃ食べきれないかもなぁ、とカレンダーを見て思いつく。

「まだ、入学式じゃあないのに、なんで制服だったんだ?」

吉良は料理本のきんぴらの醤油のところに“もう少し控え目にする”と書き込んで置いた。 味は良いが、唐辛子も十分効いてるし、健康を考えるとこのほうがいいと思ったからだ。



翌日。
カレーはとても美味しかった。



吉良は、料理というものがレシピがあってそれなりにやればそれなりに出来るものだが、 そこには手間というものがあって作る人間がぶつかるのはそこなのだなぁとその後凝ってから理解した。
偶には美味いところで外食をし、健康を害さない程度に弁当や惣菜を買う。
そして、母が死に、時折、隣の家のカレーが食べてみたくなるが、 スーツに身を包むと、世間は料理をしてくれる奥さんができるものと冷たくなるもので。 もう二度とあのカレーは食べられないと思うと無償に欲しくなって、 今は素晴らしく綺麗になってしまった隣の家のあの子じゃない、 違う“彼女”に玉ねぎをみじん切りさせてみて、味の違いに首を傾げてみている。




一番少女は寝かしとく




ごく普通に生活してる殺人鬼の薄ら寒い罪悪感のない生活。
書く奴の好物が凄く分かりやすい食事と年の差ネタ。
四部の時系列になると“あの子”は大学生くらいの計算になる。