「“いってきます”って素敵な言葉だわ。家があるの、帰るところがあるの。
しかももっと嬉しいことに、その言葉を言うべき仲間がいるんだわ。
両親かしら、それとも兄弟かしら、ううん、親しい友人かもしれないわ。とにかく仲間ね。
同じ気持ちを共有できる人がいて、自分のテリトリーがあって、
そこから旅立っても、帰れると思えることって素敵だわ。
けれど、それより、もっと素敵なのは“ただいま”っていう言葉ね。
だって、帰ってこれたのよ?仲間の待つ家に。帰ってきて、仲間が居て、
彼らに向かって「ただいま」っていうの。なんて素敵なのかしら」
「だから、人を殺したっていうの」
「…だって、仕方ないじゃない。私は人の血がないと生きていけないんだもの。
生存するために、ほかの命を食らうことは人間だってしていることでしょう?それを否定できる人間なんてどこにもいないわ。
私の命になれるものが人間の命だっただけ。私にとっての牛や豚や鶏や野菜が人間だっただけ。
それとも、は私に死ねと言いたいの?」
「死ね」
「…酷い」
酷い、酷いわ、とほろろと涙を零す少女の姿をした鬼が、闇のなかで泣いている。
「私はただ生きたかっただけ。死にたくなかっただけ。それをどうして生き物が否定できるっていうの。
私を否定できるものがいるとしたら、死体だけよ。けれど、死体は喋ることができないわ。」
「だから、私も否定できないっていうの」
「そうよ」
「私の両親を殺したくせに」
「知らなかったのよ。知らなかったわ」
睨みつけた目から、ほろりほろりと涙が零れる。
少女がフランス料理を上品に頂くように、喉笛に噛みついた男女が私の両親だと知っていたら、
沙子は彼らを自分の餌にしなかったのだろうか。そんなはずがない。
なぜなら、彼女は生きたいからだ。命の理論は先ほど聞いた。
私は濃い闇の中でくしゃくしゃと顔を歪ませて泣いている少女に向かって鈍くなりそうな刃を必死に研いでいる。
私の背後には、風が吹くとガシャガシャと不躾な音を響かせる立てつけの悪い窓があり、空を立体的な雲が流れているのが見える。
そこから差し込む月光が、部屋の奥の闇とぶつかり、廃墟のように埃と崩れた壁の欠片の散らばる床に二つの世界を作り出していた。
光、又は闇に沿って、コントラストという線が二つを分断している。
「だって、知らなかったもの。のお父さんやお母さんなんて。私はがいればよかったの。
が私を迎えてくれればそれでよかった。
は食べないって決めたんだもの。
もし、私が死にそうなほどお腹がすいたって食べないわ。
何故なら、食べたら変わってしまうもの。
私はがいいの。変わってしまったものなんて要らない。が迎えてくれればそれでいい。」
延々と繰り返される呼び声が、頭からドロドロとした生ぬるい液体を流しいれて支配しようと襲い掛ってくる。
「。は私を受け入れてくれたわ。迎えてくれた。
“ただいま”って言わせてくれたし、“いってきます”も言わせてくれた。
だから、あなたは食べない。食べちゃったら、どっちも意味の無いものになってしまう。悲しいわ。
けれど、食べてないのに、あなたはもうあの素敵な言葉を言ってくれなさそう。悲しいわ。
だって、仕方ないじゃない。
お腹がすいていたの。けれど、貴方は食べちゃいけないって決めたの。
だから、迎えてくれたあなた以外を」
「私のせいだって言いたいの?」
「…悲しいわ」
しみじみと響きが終わりを告げると、空が曇ってきたらしい。
境界線が薄くなっていく。それに危機感を覚えながら、私は生ぬるい液体が目から溢れだしてきそうで、
たぷたぷと頭を満たしたそれに気づいて、手遅れかもしれないとやっと思った。
「……沙子。家畜は“いってらっしゃい”も“おかえり”も言えない」
「違う。は家畜じゃない」
地団駄を踏む沙子が、ただの子供に見える。
浸食が進んでいるらしい。これは私よりずっと年上の化け物だ。
「沙子。もし、アンタが認められる存在がいるとしたら、それは死体だけ。
血を吸われ、墓に入れられ、掘り返されて、血を吸うようになった死体の同類だけ。
死体に気に入られた家畜は、ペットにはなれるかもしれない。けれど、対等にはなれない」
違う。違う。違う。同じくらい私の名前を叫ぶ沙子は、やっぱり子供に見える。
ペットを自分の友達だと言い張って、自分と同族の友達を作れずにいるような小さい子。
この目はもう、イコールで結ばれるような現実を映しはしない。
「ねぇ、沙子。だからいい加減血を吸って」
「嫌!」
「血を吸って。全部終わってしまったら、遊びに行こう。
昔みたいに散歩に行こうよ。夜の森に繰り出して、ピクニックに行こう。
土を掘って、月を見上げて、疲れたらそのまま手を繋いで眠ってしまうの」
それでいい。何もかもが上手くいくなんて最初から思ってなんていない。これは一番いい答えのはずだ。
けれど、沙子はとても悲しい顔をしてふるふると首を左右に振る。どうして。
・・
「だって…!結局、は私に死ねって言いたいんじゃないッ!」
薄紫のロングスカートが翻り、遠ざかっていく。
私は、ずるずると壁に寄りかかりながら座り込み、鉄格子のなかで可哀想にと、
本当の安らぎを知らないまま必死に必然に首を振っている子供を見ていた。