後頭部の鈍い痛みを感じながら、座席に座りなおし、
隣で今まさに袋小路の無謀に気をおかしくした彼女を見ると、痛みに耐えるような顔をして前を見ていた。
その右手は苛立ったようにトン、トン、と打って、その爪を噛もうと何度か口元に持ち上げて止める動作を繰り返している。
追い詰められているという。しかし、実際、にしか見えていない包囲網が本当にあるものなのか妄想なのかは、隣に座っている宮田にはわからなかった。
ただ、彼女の呟きは狂気に満ちているように思い、どうしたって、奇行に見える。
「昭和は14年前に終わったはずだった。終わったはずだった。終わったはず…」
はカレンダーを見ながらしきりにそう繰り返していた。
何を言っているのか、今まさに自室のベッドからその声によって目覚めた宮田にはわからなかったし、
急に人が変わって喚き散らし始めた彼女を茫然と見つめるばかりだった。
そして、それから記憶が飛ぶ。直前何か声を掛けたような気がするが、なんて声を掛けたのかは判明しない。
ただ、鬼気迫るような彼女の表情と姿は記憶している。
その手に握られていたなんだかやたら堅いものはしばらくの押し問答の末、
自らの後頭部へと吸い込まれていったのだろう。
次から今までは夜中のガラガラに空いた高速をかっ飛ばす車のなかに居て、恐ろしいことに車を運転するの狂乱は収まっていなかった。
「公共のものにはなるべく気をつけなくちゃ。
実際、どれほどの力があるのかはわからないけど、背景が穏やかじゃないから。
軍が実験を行ったというのなら、国の中枢の機関は村の実態を知っていて、
今の今まで辺鄙な村という存在に、あえて手を触れないでいたのかもしれない」
酷く疲れてそのまま背もたれに凭れかかり、その陰謀説を聞き流していた。
「へいせいが来ない世界となにか違いがあるといえば、多分、魚だ。
魚が落ちてきたか、来なかったで、とても重要な何かが変わってしまった。
だったら…だったら、なにかもっとなにか恐ろしいものが、今の私たちにの体には流れているのかもしれない」
神話って信じる?宮田君は?彼女は引き攣った顔で笑いながら言う。
「私は信じたくないよ」
「俺は頭が痛い」
内側も外側も。そう言うとは「ああ、ごめんね」と大して気も留めず謝罪をしながらアクセルを踏み込む。
何キロ出ているかは知りたくなく、メーターはあえて見なかった。
「信じたくないけれど、それ以外考えられないわ。だったらもう海外しかないよ。
太古の昔よりもSFのほうが好き。夢があって。
ライトセーバーで頭を切り落としてって。宮田君、ドイツ語話せる?」
「このご時世、医者が誰でもドイツ語に堪能だと思わないでください」
「英語は?」
「まぁまぁ」
「じゃあアメリカね」
ハリウッドに行こうよ。
イギリスでもいいけど、あそこもなにかと古いものがありそうじゃない。アメリカのほうがいいよ。
宮田は呟く。
「エリア51は?」
「ううん……宇宙からの飛来物……」
悩ましげに言って、星の目がぁ、星の目がぁ、と呻いている。
「これこそSFだろう」
「じゃあ、地下は?」
「あそこはまた別の文明があるんですよ。化石をキールに仕立てて光る苔を手探りで食っている奴が」
「間借りさせてはくれないの?家賃払うよ円だけど」
「奴らは貪欲なので金を差し出した手ごと食う」
「その食おうとした口を食う」
「その前に食う」
「そのその前に食う」
「食われた」
「吐く」
最後、震えた声では言い、だんだんと車は失速し始めて法定速度に収まった。
タイミングを見計らっていた宮田は言う。
「もう、帰ろう」
うん、と素直に頷き、近くの出口に一度降りようとするが、その前に通りかかったサービスエリアで自動販売機のホットドックを食べて帰ろうということになった。
ごめんね、と正気付いて自分の行動に蒼くなったは宮田の後頭部を撫ぜながらしおらしく言う。
「時々、堪らなく不安になるの。
ただの平和な長閑そのものの村なのに。昔の記憶が蘇る見たいな感じで居ても立ってもいられなくなる」
***
の不安の発作の切っ掛けは掴めなかった。ふとした瞬間に人が違うくなる。
小学校の宿泊学習の時の夜の学校で、田園を眺めている時、食事中に、テレビを見ている途中に、そして、今晩は夜に目覚めてカレンダーが目に入った後に。
彼女のその不安定さは狂人の前兆のように思われたが、幼少の頃から発症してもう10年以上ちゃんと現実に戻り続けている。
そうなる度に泣いて怯え意味が分からないことを叫び、両親や友人を困惑させてきたは次第に孤立を深めていった。
宮田が彼女に接触したのも原因はこれだった。
もう十数年も前、宿泊学習、開かれた夜の学校で就寝時間に児童がこそこそと話を続けたりしている中、悲鳴が響いた。
終わらない続く悲鳴に呆然と不安そうに半分体を起こしたりしている児童の中をガラッと隣のドアを開いて入ってきた困惑した顔の教師が何かを抱えて足早に駆けて行った。
女子に用意された部屋から保健室に行くには男子のこの部屋を通らなければならなかったからだろう。
端に場所をとってクスクスと耳に障る幼い声に目が冴えてしまっていた宮田はその正体を見た。
腕の中で抱えられながらも小柄な女子生徒が腕や足をつっぱりジタバタと暴れて叫んでいた。
恐怖に顔を引き攣らせ瞳をぐるぐる滑らせながら「死なないよぉ、死なないよぉ」と。
―――あの子はきっと狂ったんだ。
不思議と予感があった。ああ、自分が役目を果たす最初はあの子になるんだろうな、と。
彼女が“戻らなかった”ときに、対処するのは父ではなく自分だ。
そう思って、まだ正気が残って居たらしい自分の狂気に泣くの傍に寄り、寄る辺のなくなりつつあった彼女も近くに居続ける素振りを見せる宮田を見つけた。
しかし、誤算だったのは、受けた予感は間違いで、は辛抱強く毎回ちゃんと戻ってくるものだから役目は果たせず、こうしてずっと二人でいた。
は孤独を作る狂乱に苦しんで泣きはらした目でホットドックを齧りながら星を見ていた。
宮田は垂れた冷たい手を手繰り寄せてやって、片手でパンに食らいつきながら片足でまだ温かい空き箱を潰した。
並んでいる黒い車に深い藍の空と電灯がいくつも反射していた。
「いつも巻き込んでごめんね」
何度も聞いたことのある台詞に何も返さずに置くと、静寂のなかスン、と鼻を鳴らして嗚咽を飲み込むように口に詰め込み始める。
傍に居て、だんだんと狂って怯える彼女は途方もなく出身地であるこの村に恐怖しているのだと分かった。
けれども、やはり、は狂い切らず、戻ってきては謝罪をして「一人にしないで」と宮田に縋って泣く。
次第にの傍に宮田以外が居なくなりつつある毎に、年齢を重ねてある程度の権利を得て、泣くばかりだった行動は村からの逃亡へと傾いた。
友人は居らず、家族ももう冷たかった。彼女には何もなかった。訪れる狂気の波にあがらうことなく、
バスに乗り、電車に乗り、車を運転した。けれどもやっぱり彼女は村に戻る。
狂ったが、毎回、狂いながらもなんとかして一緒に連れて行こうとする宮田が一言、
「もう、帰ろう」と言えば。
誰の目も無いなかで宮田が繋いだ手に力を入れてやるとは頬張った物を飲み込んでこちらを見た。涙目だった。
じわじわと確かめるように握り返そうとして不安そうにいじらしく震える手のひらのまま彼女は、一人で納得し、いつものように「うん、帰ろう」と笑う。
***
憔悴したを助手席に乗せて、帰りは宮田が運転をした。
車の多く停まった静かなサービスエリアから出て、一旦、近い出口から折り返してきた。
ガラガラに空いているというよりも誰も居ない高速道路を走らせていると、ぼんやりとサイドミラーを覗いていたが「あの車、ついてくるね」と言った。
確認するといつの間にか黒い車が着かず離れず後ろを走っていた。
「ついてくるもなにも」
高速道路なんだから行きたい方向が同じなんだろ。と言いかけて彼女が「あのね」と口にする。
「サービスエリアも車が一杯だったね。夜中なのに。明日休みでもないのに。
運送トラックとかじゃなくて黒い普通の車。でも、誰も降りてなかった」
全員揃って寝てたのかな。でも、あれだけあったら一人くらい、こんな時間でもコーヒーとかホットドックとか煙草とかトイレの為出ているものじゃないかな?
窓に頭をくっつけて青白い顔をしたが白くなった唇を震わせていた。
その目はサイドミラーを凝視して後ろの車の運転手の顔をなんとか見ようとしているようだった。
つられて宮田も運転に気をつけながらルームミラーを確認した。後ろの車はスモッグを貼っているようで運転席が見えない。
背筋を撫ぜられるような気分がした。ずらりと並んだ黒い車の光景、その中で明るい自動販売機の明かり、人の気配は一人も無いようだった。
それでも、外に誰もいないのなら運転して来た者が一人、一人、車内にいたのだろう。
「……見張られてるのかな」
「そんなわけないだろ」
ポツリと言われて、こわい声を出してしまい宮田は後悔をした。
彼女を見張っているのは自分だから、の口からそんなことを察する能力があることを言って欲しくはなかった。
ハッとした顔をして「ごめん、まだ、ぼうっとしてたみたい」と疲れ果ててが謝る。
それに便乗し、そうだ、まだ戻りきれていなかった彼女の強迫観念だ、と、宮田は少しだけ過ってしまった考えを否定することにした。
もたった今ちゃんと正気を取り戻したし、心配事は頭の痛みだけで良いはずに決まっていた。
それでも宮田はもう一度だけ、後ろの車の見えない運転席を見て、少し強めにアクセルを踏み込んだ。