「あ、御弔いを し て  い  る」


奇妙な声だった。

虫の羽が耳を掠めていったような極近い場所で口を開かれ、舌の動きすら捉えたと思って、 その方向へと手を振り上げると、糸に引かれるように暗い森のずっと奥のほうへと声が移動し、すうっと消えていった。 その間、どんなに目を凝らしても、声の発生した付近に検討はつくものの、あるべき姿が見えず、 そのわけがわからない光景に体が硬直した。

今のは一体なんだったのか。

声は生々しかったように思った。まるで姿の無いものが声を出していたかのようだった。
宮田には今のが“自らの異常”からくるものだったのか、 それともちゃんとした音だったのか、正確に判断できるという自信がなく、その場にじっと耳を澄ませて待った。 簡単にわかる方法である問いかける他人が傍に誰もいなかったのだから、そうするしかなかったのだ。

宮田は一人だった。
先ほどまで、人のいない夜の深い暗闇の森に囲まれたなかで、手に持ったスコップを振りおろし続けていた。
そこに誰かが近づいてきていた気配は微塵も感じていておらず、道理で周りには人の姿はない。 いるはずのない人間の声がした。いつもの“声”とはどうやら違う者のようだった。相変わらずの女の声のようではあったものの。 穴を掘っていた手を止め、スコップを引き寄せた。 宮田はできたばかりの傍らの土山にザクっと刺し、声が消えていった方向を見つめた。 人か、いや、幾ら背後からとはいえ、あんな近く、人が近づけば分かったはずだった。 「御弔い」言葉の意味に眉を顰めた。

人間?
疑うよりも先に、近くの木の向こう側から、再び、確かな人の声がかかる。

「一人で埋めているの?」

やはり女の声。

少なくとも、正気の村人なら今の宮田にそんなことを尋ねることはないだろう。 ほうほうと歌うような気楽な女の声もふさわしくはない。 村人への事の発覚の憂慮を捨て、かわりに違う緊張を持って警戒をする。 詰めていた息を少しずつ吐いておき、備えた。

「坊主もいない、卒塔婆もない。あなたは遺族?何か悪いことでもしたの?」

地面に転がった懐中電灯が丸く照らす大きな大木のその陰からぬっと白い人間の腕が生えた。
宮田の足元の地面に転がる大きな布に包まれたものを指す。

「……いや」

粘つく喉の奥から試しに答えてみると、白い腕はゆらっと美しい動きで陰へと消えた。

「人の恨みをかったの? 葬式は? 金がないから?」

それは答えを返したことに気を良くしたのか木の陰に隠れたまま次々に聞いてくる。 一方、宮田は会話を交わしたというのにますます話が行き違っているような齟齬を感じていた。 人の腕を持った正体不明な相手は罪人ならこうするのが妥当だと思っているのか。 じんわり、と汗がにじんだ。この埋葬に根本的な疑問を持たなかった。 時代と常識が声の主に備わっていないことを気味の悪さという形で実感させられる。
目の前に動く、肩の近くまで何も纏っていないぼんやりと光っているような女の白い腕。

これは本当か?

再び自らの正気を疑った。
光景の残像がざらざらとした木の皮のその向こうにあるべきものに装着され、 あるべきものが質問を繰り返しているという。 肌で感じるだろう雰囲気を理解できてはいないという態度をして問いかける。 その態度を演じているのでは、そうも考えたが、目的に行き当たらない。 真夜中に山で躯の傍ら穴を掘る男の前で演じてなんになる。それすら気味の悪い齟齬だった。
その気味の悪さは、巡って、“人ではない存在”というところに思い至ろうとして、もがく。
なにしろ、そんな人間よりもそちらのほうが近い。 女の本体よりも先にやってきた声のこともあり、 話を続ける腕を持つそれに相対して、思考の漏斗に絞って宮田はそれを飲み込むことにした。

「どれも違う」
「ふうん」

(ああ、村に出る奴等のほかにも存在していたのか)

ついにここまで。

一度のど元を過ぎ去ると、常人なら逃げだすことを考えるこの場面で、宮田の心中は妙に座りのいい答えを得たような気になった。 人外という言葉ごと引きずられていった混乱から抜け出し、声のする方向から目線をそらさずに見つめ続ける。 女に対する嫌悪感は少ない。木の奥で腕だけだして「ねぇねぇ」と言っている姿は間が抜けているように思うし、 こんな人外なら、恨みつらみの怨霊の類でなし、山のなかに現れたこの女の正体は、きっと狐狸の類ではないか、と勝手に思った。

それよりも、重を置いて、人道に外れた生涯をおくることになるだろうとは思っていた自分の人生で、 まさかこんなようなものとまで話をするという、自分の役目の業の深さに関心をしていた。

ふうん、と女の深い頷きのように頷いて子供の頃に移動図書かなにかで目にした妖怪大図鑑を思い起こす。
どれもかれも居るとなればそれまでだった。自分は触れやすいのだろう。 そうか、ふうん。思ってしまえば女の正体なんて宮田が恐れるものではなくなった。 今のところ問いをするだけの人外なんてほうっておくか、追い返そうか。と考える。 けれども、これほどまで、こうはっきり意思を持って話す人外を見るのは初めてのことで、 宮田は、周りの空気を吸って、人外の次の行動を待ち、きぃん、と冷たい鉄の柄を握りなおしてもう一度余分に息を飲んでおいた。 そうしていて、声が「ねぇねぇ」等々のことを訊き、それでも宮田が警戒を解かず黙っていると、 考えてみればやはりというか、女が本題とばかりに神妙に言い出しはじめてくる。

「それ、いらないの?」

恐る恐ると尋ね、おずおずと遠慮の気配すら覗かせるような、そんな声音だった。
けれどだからこそその問いは禍々しい響きで聞こえた。

「なら、くれ」

緊張を再び張り詰めるのにはそれで十分だった。
再び木の奥から出たほっそりとした腕はその先の指を少し曲げて、宮田の傍に転がっている躯を指している。
女よりもよっぽど嫌悪感のある塊だった。

「これをどうする?」
腕を見たまま、毅然と冷たく言うと今度は声が黙った。

「お前は何だ。これをどうする気だ」
繰り返して問うと、んん、と零し、言葉を探すように女の腕は彷徨う。

「……もったいない。どうせ埋めて無くしてしまうのなら、頂戴したい」

「駄目だ」
目的はわからずとも反射的に答えていた。

「どうして? なくしてしまいたいでしょう?」

「そうだ。これは人目につないようにそうする」

だから、目的のわからないお前にやるわけにはいかない。こんなものを貰ってお前はどうするつもりだ、と、再度問いかける。 だが、木の向こう側のその女は、吃音するように、ああ、うう、と頷きとも唯のうめき声とも思える音を呟くだけで理由を言わない。 そして、その声には時折人の発音できそうもない音が重なって耳障りに聞こえ、ますます人ではないのだ、とそう思えた。

「ちゃんと無くす。ちゃんと人目につかないようにする」

「……どうするのかと訊いているんだ」
知恵のない生き物なのかもしれない。

女は声をもとに戻すと語彙も乏しくも続けたが、質問の内容を理解しない。
それとも、明かすべきではない、とだけは考えられるのかもしれない。これを欲しがるなんてそれこそ彼岸の奥底のものだ。 しかし、譲る気もなく同じ質問を続けると何度もその先を言い淀み、うう、けけけ、ぎゃぎゃ、と考えている。 宮田は思った。どうやら、女が動揺すると、声は人の喉から出る音から崩れ、動物のようでどの動物とも違う鳴き声に変わってしまうらしい。 そして、鳴き声とも違う、間延びしたかのような、雑音混じりになることもある。それは音であり、生物が発するものとは思えない。 人間の腕をして、頭は短い羽根をびっしり生やしてぽかんと目を開く鳥類の姿をしているのでは?
頑なに姿を隠した木の奥の間抜けとも思える姿を思う。 もう一度、渡してやることは叶わないと言い放って様子を見た。 だが、ついに錯乱したのか、きゅるきゅるとテープを巻き戻す音で一人喚いていて聞こえているのか、反応は変わらなくなってしまった。 言葉すら話しているが、本当の意味でこちら言葉を理解できているのか。

「うう、、んんん…」

そうして、しつこく去らずにいる弱弱しい態度のこの化け物に、宮田は今更とも思える焦りを抱き初めた。
いったいいつまでいる気なのか。まだ、夜はとっぷりと深く、陽が昇る気配もないが、それでも荷物を抱えた宮田には朝日が極近く感じた。 掘らねばならない穴もまだ浅く、野犬にも掘り返せないほどこれから闇に紛れすませないといけない。 知恵もないのに雄弁な化け物を背後に控え、足元に躯を控えて、まんじりもせずに朝を迎え、本当の村人に見つかりでもすれば、 宮田には余計な仕事が増えることになるのは明白だった。

ともかく、女を追い払うか、穴を掘る作業を続けるべきだ。
そのどちらかの答えを出す前に、正体のしれない女への警戒を続けながら宮田は身動きを取らずにいた体を動かし始めた。 まずは差し込んでいたスコップを土山から引き出し、その柄を握り、これを地面にか、それとも、という時、 引き出した時の衝撃で、山が崩れて土がこぼれ、冷たく横たわっているそれに少し掛る。 それを暗闇のなかからか見たらしい女が呟きを止め、人間の女の悲鳴を上げた。


「ああ!」


見ると、出ている腕も甲を上げて、宮田に向けて掌をがばっと開き、掴みかからんとばかりにしている。 引き出したスコップを思わず身に寄せた、が、 宮田が身構えても木の向こう側から女が腕以上出すことも、向かってくることもない。

「埋めるのはよくない!」

今でさえ、勢いばかりで、届かない腕を振り回して要領の得ない主張をする。

「うめ、埋めたら川に、つれていかなきゃな、ならなくなる」

「何故」
疲れたような声が出た。

女は逡巡するかのように黙っていたが、それも空しくなんの躊躇もなく言い放っていた。

「泥は苦いじゃないか」

心底不思議そうに。こうもあっさりと。
やはり、知恵のない生き物なのかもしれない。


***



「宮田は勤勉だなぁ」


うっすらと汗をかきながらスコップを地面に突き立てていると、ひょこひょこと奇妙な歩行でやってきて黒い穴をしゃがんで見るのは人外の女だった。 最初、あんなにもかたくなに木の後ろから出なかったというのに、隠し切れていない目的の言い分に気も短く、 宮田が木の裏側から腕を掴んで引っ張り出した後、勢い余って中途半端に空いた穴に躓いて転げた女は、 寝た地面からまじまじとこちらを見てから一度深く頷いてからも姿を隠すことはしない。姿は完全な人間であった。

あれはなんだったのかと訊くと「人の前になど殆どでないから、変なとこでもないかと思って」と言う。
続けて、「この顔で目は横に閉じるのだったか、縦に閉じるのだったか」と恐ろしいことを呟きながら左右に正しくついた目尻と目頭をを擦るので、 「そのままが普通だ」と止めさせた。

「化けるのか」

「化けてる」

単調に言い放ったあと、得意げに調子よくひゅひゅーうるるると奇妙な音を出す声は人間ではなく夜に不気味に鳴く鳥のものに酷似していた。 恰好なんかは存外現代風のシャツと裾の長めの薄い色のスカートをきている。 名前はと言った。名があるのかと言えば昔に貰った名前だと頓着しない様子であった。

「何故、化ける」

「化けなかったら話せないじゃない」
ただ、交渉をしたいだけ。そう言って、今晩もは夜にやってきた。

こんな業の深い行為は毎夜毎夜ではないとはいえ、埋めたあとはその時間になると落ち着かなくなるものだった。 だから、時折、山に確認しに行く。それこそ、余計な手間だと思ったが、野犬に掘り返されてはいないか、 それで骨を村人に見つかってしまうのではないか、と寝返りをうつ間、塾考するよりはましであったし、 通常であれば足のつくことだったが、村の住人は宮田家の者に対して深く追求してはならないという暗黙の了解があったため、 その点、物証として骨が見つかるより、宮田自身が怪しまれる心配は薄かった。 夜はそれら感情をひっくるめて抑えながら車に乗り込み、山につき、そしてその時に化け物がやってきては鳴いて行くようになって、今日、 重たい荷を担ぎ、二人目の人間用の新しい穴をつくりにきた。

ザクッと砂のぐももる音と石と高い音が重なり土を穿つ音が森に響き、「宮田。二人目だ」と、何にか関心したようなが傍らで言った。

「今日も埋めてしまう?」

「そうだ」

「くれればいいのに。そうすれば宮田がそう疲れることもなくなる」

人間は夜は寝るものだろう。
一度目と同じく、心底もったいないという表情で掘られていく穴を見つめ続けたは、 次第に飽き始めたのか、周りをぶらぶらとし始める。 これがソレを力づくで奪ったり、作り出したりしないらしいというのは都合が良かったが、やはり化け物だろうというのは、すでに疑いようがなかった。 今も、宮田の傍で恐ろしいほど細い木の枝のその先で足首をひっかけひっくり返って腕を地面に擦らせている。 その姿は、いきなり夜に遭遇したらトラウマになるのではないだろうかという正に人外の姿だった。 長い髪が滝のように垂れている。毛先は、指の先と同じように地面に少し擦り、気分のいいものではない。 案外、無地のシンプルな服は綺麗なほうなのに、そういえば見ている間に、頓着してみせたことはないようだった。 自身が予想の通りに狐狸の類だったなら、 この服も姿も宮田が化かされているだけで本物ではないのだからどうにでもできるということなのかもしれない。
臭覚まで騙されているのか。
森林と夕立の匂いが僅かさせながら悠然と歩きまわる猛獣ともいえる存在の傍、 宮田は汗を垂らしながら一心に穴を掘り続けながら、考える。 の喉からは昼間の木漏れ日に響くような小鳥のちゅるちゅるという鳴き声が漏れていた。人間の鼻歌の代わりなのかもしれない。 こうしていると、の言うとおり、これを化け物に渡してしまえば、こんな土いじりをせずに済むのかもしれない、と思う。

「泥が苦いというなら、血肉は甘いのだろう」

出会った最初の日に含んで訊けば、出てきた時に転げて鼻の頭に泥のついたは、隠していた躯を欲しがる理由知られたというのに、ぽかんと 「別に食べずとも生きられる」と言っていた。では、珍味にでもするのか、と返すと「格が上がるから。だたし毒に身罷る」と憮然とする。 毒という言葉に引っかかったが、それよりも、どうして、わざわざ自分の前に姿を現したのか?と、人を襲わない人を食う化け物に訊くほうが性急で、 それを宮田が先に尋ねると、こう言っていた。「宮田はしかめっ面で穴を掘るから、きっとそれをくれるんではないかと思って」。

「気味の悪い」

「ちゃんと人の姿をしてる」

「そういうことじゃない」

行動が伴っていない、と言うと、ひっくり返って足をかけていた枝を揺らすことなく、穴の淵へとは降り立った。 体重を感じさせず、身の周りで起こった風も極わずかだった。 この空間に宛がってくっつけたように存在は希薄の幻であり、しかし、確かには居た。 人の身で人を始末をする男の傍に、食わなくてもいいのに人を食うという人を殺さない人外。 噛み合っているのか、噛み合うことに嫌悪があるのか、胸の内で渦巻くものに名前を付けるならな気味の悪い状況であるということだった。 そして、同時に、後の処分をきちんとすると確信を得れるなら、そうしてやるのもいいのかもしれない。と、 夜明けに怯えながら穴を掘り、人ではないものとと口を利く、そんな状況に浮かされるように考えてしまう自分自身に対してにも、 人が纏う倫理から外れた場所で、もっと深遠な境界線で危うさを感じる様に異様さを感じた。

「宮田も楽になれるし、私も助かるのに」

再び山肌に差し入れ、宮田は適当にを言いくるめながら内心、どこまで、まだ大丈夫なのか慎重に考えた。 に亡骸をくれてやる。しかし、その場合、恐らくもうここにくることは止めにするべきに思える。 一層口を開いた墓穴は恐ろしいものであり、闇へと躯を入れ、泥を戻して視界から隠し通すと、 そこからは、地中が預かりを知らない、知るべきもない区域になることを知っている。
それを掘り返すことは冒涜だと思う。人の命を奪ってもそれから先は、宮田には越え難い境い目のような気がした。 もし、が躯を迎え入れたなら、この人外は宮田のなかで墓穴の中と同等になるということだ。 だから、墓穴から声を出す者に会うことも冒涜に違いないと感じる。 そして、一度、に躯を与えたならば、もう、穴を作るなんていうことはしなくなる。 体のいい収納場所を見つけた感覚で、境界を越えた後の宮田は自分の服従する家に命じられるがままに作り出した冷たいものを詰め込み始める。 それが嫌か?そうして、自問の先に、わざわざ穴を作ることに贖罪の意義を感じているんでないか、と思いいたる。今更な。

上の土を固め終わると、ふうと宮田は息をつき頭を上げた。
顔を上げた丁度目の前に、周りを囲む檻のような木々に懐中電灯の明かりを受けて縦に伸びた薄い人影が二つそれぞれユラユラとあった。 二つは特定の形を持たずに伸び、木肌をなぞっては歪んで不定に混じり合っている。 二つが踏み越えてしまえば、そこで得る新たな姿こそこの影のようなもの。 お互いがお互いに、噛み合って重ねあってしまった部分が、よりどす黒く映ってみえる。



「あーあ、また埋めてしまった」



影の向こうから声のする。


業の夜の話