宮田先生は、村で唯一のお医者さんだった。
恐らく腕はいい。母や祖母の話しを聴くに、不安は伺えず、治るのが当たり前と、
流れ作業のような無感情さで、受診に赴けるくらいに信用もある。
ただ、祖母がいうには、親もそうだか、この前病院を継いだ倅は親よりもっと恐ろしく、
宮田先生は底なしのからっぽなのだという。
宮田先生は27才だった。
母や祖母によると、まだ若造の域なのだという。
私にしてみれば、27という歳はとても大人に思えたけれど、年を召した者の多いこの村では、
院長も兼ねている宮田先生は、病院を継いだ当初、とても物珍しく扱われたらしい。
母の言い分によると、「なんだか若い先生って恥ずかしくなるじゃない」だった。
私が宮田先生にお世話になったのは、冬のこと。
今年の冬は、強力でとてもしつこい風邪が流行っていた。
なんだか喉が痛いなぁ、と思っていた次の日には、熱が出て、頭が痛く、熱は上昇を続け、
肺炎の危険性を指摘されたのは3日目のことだった。それを告げた宮田先生の妙に涼しい目を見ながら、
だるいまぶたを閉じまいと、診察を聞き、その後、未だかつてないほど、耳に痛い親の指示も利き、一週間が過ぎた。
肺炎にはならなかったものの、まだ完全には治っていない風邪の執念に驚きながら、
もう、慣れた足取りで、村で唯一の病院へと向かった。
心音と呼吸音を確かめる円形の銀色が腹の薄い皮膚の上から押し当てられ、それが終わると次は背中。
一体どんな決まり事があって、どんな音を確かめるのか、一定な距離感で落とされる感触に肩をすぼめて耐えると、
今度は喉を診察する。平たい棒のようなもので舌の奥を押し、喉の突き当たりを見る。
私は、これが苦手だった。
「まだ腫れてるようですね」
器具を消毒しているアルコールの味を舌で感じながら、口のなかで動く自分の意志が通じないものを気味悪く思う。
そうです。まだヒリヒリするんです。と、言う直前に使用済みの器具がカチャンと音を立てて同じ銀色の容器に入れられた。
「同じ薬を継続して出しておきます」
結局、返事を返す前に、次へと進んでしまった。はい、と手持ち無沙汰になりながら2つぶんの返事をして、
カルテにさらさらと書かれる解読不明な文字を眺め、それを書いている宮田先生を眺めた。
やっぱり、涼しい目を…。あれ?と、私は首を傾げた。
「宮田先生」
「何ですか?」
「もしかして、疲れてます?」
何を根拠に、と、怪訝な目が細められ、瞳が滑るようにこちらを見た。
「だって隈が」
見つけてしまったものをそのまま言ってしまう癖は、小学生の頃に治したはずだった。
不意にでてしまった癖のせいでなんの意図もないけれど、宮田先生の答えをしぶとく待った
「…昨晩、よく眠れなかったもので」
諦めたようにして、答えた宮田先生は、先ほどよりも顕著に疲れて見えた。
「眠れなかったんですか」
「はあ」
「何かあったんですか?」
「…医者は私ですが」
そう言われると口を閉じるしかない。
カルテを書き終わった宮田先生が、診察の終了を告げる。
ぼんやりとした拒絶を感じながら、退室のために私は立ち上がった。
「宮田先生」
「今度はなんです」
「ありがとうございました」
言われた宮田先生は、その言葉はよく聴く、という風だったので、
もうこちらを見てもない背中に向かって、挑戦のつもりで続けて言ってみた。
「宮田先生のおかげで助かりました。本当に、ありがとうございました」
セリフは、手術をして奇跡的に助かったドラマの主人公が退院するときのものだった。
深く曲げた腰を元に戻す前に、宮田先生の表情を予想する。
怪訝そうな顔。嫌そうな顔。大袈裟なと呆れた顔。居心地が悪そうな顔。
もし、困ったような顔だったら、やったかいもあると面白く思った。
けれど、人の思いをより柔軟に想像できる力は私には無かったみたいだ。
「私は医者ですから」
身につまされて、逃げるように私は診察室を出て行った。やるんじゃなかった。
祖母の「からっぽ」という言葉が頭のなかでぐるぐる回り続けていた帰り道。
朝から鳴り続けている村内放送が頭から降りかかってきた。
体裁を整えた声が、私の知らない村の住人の一人が昨晩から行方不明で探しているという内容だ。
けれど、その声は一向に私の頭のなかに届いて来ない。何時まで経っても頭のなかを支配していたのは、
腰を元に戻した先にあった宮田先生の表情ばかりだった。
宮田先生は双子だと聞いた。
宮田先生の兄は救導師様で、黒い特別な服を着ていて、宮田先生は間逆の白い白衣を着ていた。
二人がそっくりだとは思っていたけれど、双子というのは他人に聞くまで私は知らなかった
その後、二人の服の色のことを発見したとき、私は双子とはそういうものなのか。と自ら創作した屁理屈にしたり顔で頷いた。
彼らの名字が別だということに気がついたのは、不思議と随分後のほうだ。
なにか事情があったんだろうか、と、それとなく母に訊いてみると、煩わしい表情で、
子供は知らなくていい、と言われてしまった。
その返しは不満だったけれど、すぐに、事情についての興味は失ってしまった。
だだ唯一分かった気分になれた屁理屈で、子供の頭は満足してしまったのだ。
ああ、サイレンが聞こえる。
「救導師様」
そう思ったのは、色が黒だったからだ。
この化け物がウヨウヨしだした村で彷徨い続けて、ようやく出会えた普通の人は、独特な黒い服装で、
私は見覚えのあるその姿に3日振りにホッとして、吐息のようにその名前を呼んでいた。
しかし、振り返った姿に近寄ろうと自然と駆けていた足がとまる。
「…救導師様?」
再び問いかけたのは、振り返った姿が、誰だかわからずに混乱したからだった。
「生きていましたか、さん」
見覚えのある涼しい目が私を見る。
「宮田先生?」
頭を傾げた彼は、次に首を横に振る。
無理やり左右に撫でつけられていた前髪が、その衝撃で、額にほんの少しかかった。
「またアナタはおかしな事を。これのどこが宮田だというのです。」
腕を広げて見せてほのかに笑ってみせる。
ギクッとしたのはその表情が本当に救導師様に見えたからだ。
祝い事の際に祝詞を捧げる救導師様にそっくりだった。
飲み込むのには余りに大きな違和感を感じながら、行き場のない私は、
こんな世界で己の使命を持ち合わせているらしい彼に着いていくことにした。
サイレンが聞こえる。
まるで何かを追い立てるみたいに。
前に私の頭を満足させた屁理屈が、今になると、とても悲しいものに思えてしかたなかった。
そういえば、と思い出して、彼の横顔を盗み見れば、あの涼しい眼差しの下、えくぼの辺りにあったほくろは、
やっぱり、彼の右側にあった。救導師様は逆だったはずだ。やはり、彼は宮田先生なのだ。
「あの、」
「何か?」
「もしかして、疲れてます?」
「…私にはアナタのほうが余程疲れて見えます」
「聴診器ってあるじゃないですか、あれってどんな音がするんですか?」
「…さあ」
「心臓と、肺と、当てるところは決まってたりするんでしょうか?」
「わかりかねます」
「私、舌を押さえて喉を見るあれ苦手だったんですよ。」
「そうですか」
「知らないんですか」
「知っているとお思いですか」
私は、どうにかこの嘘を宮田先生から明かして欲しかった。
前を向いていた彼が、戯言ばかり言っている私に、念を押そうと振り返った。
「―――…ああ、」
「何です?」
「いえ、…急ぎましょう」
宮田先生が私の手を取った。なんだろう。どうしたんだろう。
種類の違う不安があふれ出てきた。けれど、考えようとすると、サイレンがとても煩くて考えることができない。
…違う。なんだか声のような。海の音のような。
双子は、見かけが同じな分、中身が反発する。白と黒みたいに。
そんな屁理屈をつくって満足していた私は、それとは別に、こんな屁理屈もつくっていた。
【自分に近い人間が、自分と違えば違うほど、その相手を羨む。】
宮田先生は、自分と正反対な双子のお兄さんを羨んでいたんだろうか。
なにも考えられなくなってきた。
足元に垂れた血に驚いて、どこを怪我したのかと、手で探ってみると、
自分の両目から血が流れ出ていた。 これは知ってる。
「化け物になるの」
「なりませんよ」
「おんなじです。お母さんとお祖母ちゃん、同じ」
「なりません」
「どうすればよかったの」
「その前に手を打ちます」
涼しい眼差しが前を見据えている。
私はきっと、この眼差しが好きだった。
「また助けてくれるの、」
「そうです。私が、救ってさしあげます。」
「やっぱり、宮田先生だ。」
一瞬困ったように見えた宮田先生は、青い炎を掲る。
海が呼んでるけど、先生が助けてくれるから、行ってなんてやらない。