彼の言う普通の女とは、暗殺を生業にしている男に対して、拒絶の悲鳴をあげて、触らないで!殺さないで!と叫ぶことだという。
まして、自分から近付いてきたり、愛を囁いてみたりと、そういうことをしてくるやからは、同業か、よっぽど闇に餓えているやからだったと彼は笑った。
そして、そういうやからのほとんどは彼の無駄を省いた殺しに対して畏怖して、時に逃げ、時に崇拝したのだ。
馬鹿みてぇ、と彼は彼女らを殺しよりも、手荒く扱ったそうだ。そう、彼の場合、殺しや戦いのほうがよっぽど丁寧だった。
けれど、いや、だからこそ、私はとまどうことになるのだ。
彼のその赤いはずの手が、私の顔にかかる髪を避けたときの繊細さは、一体どこから生まれてくるのだろう、と。
私はふわふわ当ての無い思考は嫌いだった。現実を求めて、優しい指を振り払い、自分の伸び始めた爪を見る。そろそろ切らなくちゃ
いけない。爪きりはどこにしまったか。たしか、引き出しの二番目あたりだ。と爪切りを取り出そうと起き上がろうとするも、彼はそれを許
してはくれず、逃げていた私を連れ戻すように手を捕まれた。
彼は今、私を決めかねているようだった。
果たして自分から飛び込んできた女は、崇拝か、畏怖か。
私から見れば、私はどちらかといえば無駄なことが嫌いだから、彼に対する感情は畏怖に近い。けれど、彼はそう思えないようだ。
それもそうだ、畏怖の相手にこんなに無防備になるものか。
彼は判断がつかないその苛立ちと、少しの恐れのような感情をもてあまし、私の爪を噛み始めた。その姿は許しを請うようだ。
私はこんな相手にやっぱり畏怖という感情を当てたくないと思う。じゃあ、私は崇拝か?畏怖すら当てはめたくない相手を?
そういう曖昧なとき、人は理由をつくるのだ。
私は指先の感触を忘れるように、灰色の思考へと没頭する。
まず、医者という職業はなんだろうかと考えて、それは、人の病を治す職業である。と回答する。
ならば、暗殺者という職業はなんだろうか、と考えて、それは、人を殺す職業であると即答した。
そうか、けれど、
私はこのカテゴライズを打破することで、畏怖と崇拝を崩壊させようと試みる。
医者は人を解剖し、腹を割く職業であり、
暗殺者は人を笑顔にかえる職業である。
でも、私は少し育ちすぎていたからか、今まで養った道徳が邪魔をしてこないはずがない。その、人の笑顔とは一体どれほどに穢れたものなのか。
そして、どちらが生産的だ、と聞かれればとうぜん彼のはずがないのだ。
きっと、決めかねているのは自分かもしれない、と困ったように笑う。そうすれば彼も爪から口を離して笑う。今までも今からも保留だ。
この頃はそういう緩やかな流れが好きだった。私は浅瀬につかり、彼も水の重圧に嫌気が差したとき、深海から、この浅瀬に来た。
それでいいのだと思っていた。
そして、分類される物事のなかで、彼との関係はまるで掘ろう掘ろうと思いながら、現状に絶望しないために忘れたふりをする、タイムカプセルのように、
長いことその身を永らえてきたのである。ただ、それだけだ。けれど、時間とは、まったく理不尽なまま平等とは言えないその身を全ての人に降らせるのである。
そうして、いい加減いい年になって、二人は思った。それが、崩壊へのはじまりだった。
いったいいつになったら自分達は、観念を忘れた子供になるのだろうか。
理想のパートナーをつくるというのなら、0歳児からパートナーを育てるにかぎるだろうに、
私達は中途半端な年で出会い、そして中途半端なまま、その体が隙間を埋め、そして邪魔なものがひっこむのを待っていたのだ。
なんて不毛だ。私は無駄なことが嫌いだったのに。
そして、私も彼も、食べようが、断食しようが、自分が別人になれないことを悟り、途方に暮れた。一体ここはどこなのだろう。
もしかしたら、ここはもう、終わってしまった本の中なのかもしれない。彼と私が出会って思いが一致して、そしてめでたしめでたしと終幕となった舞台の裾で、
二人は閉演のベルを聞き逃したまま、困惑しているのである。ああ、ああ、動かない関係をこれほどまでに憎んだことはない。周りをながれる急流のなかで、
たゆとうこの時間が好きだったはずなのに。私はいつからあの急流に身を削られてしまったのだろう。今ではこの生ぬるい水温が皮膚を苛んでしかたがないのだ。
だから、
私は彼に対して、畏怖を持とうと思った。
このまま水に晒されて、身のうちの真ん中がなくなってしまう前に、貴方の殺しを見せてくれ。と。
私は忘れない。台詞を言った瞬間の彼の安堵の表情を。安心しただろう、この流れのない場所で泳ぐことは彼の呼吸を邪魔するものなのだ。
その表情のまま、帰っていく彼の背中を見ながら、私は自分の身を恨み、彼の止まらない足を憎んだ。
私は別人になりたかった。
そして、できるなら貴方になりたかった。
今更、言ってみたところで、無駄なことはわかっていたが、嗚咽は止まらない。貴方に会って私はおかしいのだ。
そして、空白の数週間が過ぎ、畏怖の機会はついに与えられた。
私達にも理不尽な使者が舞い降りたのだ。今こそこの窒息しそうで暖かい場所から追い出される時がきた。
私は死刑宣告を待つ、従順な死刑囚のように、静かな目でその有様を見守った。
ああ、しかし、
普通だったはずの私は、なんだ、こんなことか。と、なんの障害も感慨もなく、
匂いと色彩を受け止めて、まるで長い長い映画を見たあとのように息をついたに過ぎなかったのだ。
どうすればいいだろう、私は思う。私の道徳はとっくに死んでしまっていたらしい。
私は私のまま別の人間へとなっていたあとだった。
何時の間にだろう。
それは彼が惨事の残り香を纏わせて家に来たときか、彼の剣の話をわくわくと聞いたときか、彼の同僚と会ったときか。
混乱し、立ちすくむ私に彼はどう思ったのだろう。
彼は低い声で、怖いか?と私に訊いた。その表情はいつもの彼らしからぬ、傲慢とは程遠い自嘲の表情だった。
そして私は思った。もしかしたら、あの安堵の表情は、人が終わりを悟ったときに浮かべるわずかな安寧だったのかもしれない。と。
まるで遅い回答だ。私は過去の自分の死体を見て、なんて間抜けな奴なのだろうと、呆れた気分だった。
私が持ち合わせているものは畏怖でも崇拝でもなかった。
それに近いものだが、畏怖というには自分勝手で、崇拝というよりは穢れている。
私が欲しいものは、力の誇示でも、絶対でもない。
欲しいものは、私の顔にかかるうざったい髪を避けてくれる妙に繊細な指である。
さっきまで五月蝿かった心臓はゆっくりと動いている。眠りの前にも似ている。
もしかしたら、浅瀬で育った私は、深い海に出て、鮫の落としたお零れに預かって、
その身を流れに負けないくらいには、大きくしたのかもしれない。
その証明のように、私は彼の手をとり、大丈夫みたい。と言った。
彼はその手を持ち上げて、あのときと違った、口づけを落とした。
そうしてやっと、彼の判断も定まったらしい。