学業は学生の本分とはいうものの、まだ将来もあやふやな学生にとって、知っていてなんの役にも立ちそうもない学業は
退屈で苦痛なものだ。加えて、学業を教える教師の教え方がずさんであったりすれば、
その教えは単なる子守唄にすりかわったり、すりかわらなかったり・・・
今、黒板の前で教科書を片手に、抑揚のない、一定な音読を続けている初老の教師もずさんな教えをする人物の一人だった。
先に言った通り、抑揚のない一定でただ教科書に書かれている文章を読んでいるだけの、要点の分からない授業の進め方。
しかも、最近、掛けている老眼の度が合わなくなってきたらしく、教科書を読み間違え、担当である日本史は、
明智光秀がそのまま江戸幕府を作り上げる奇妙奇天烈な物語へと姿を変えることもしばしばあった。
おまけに、その間違いに暫く気づかず、言っている内容と黒板に書かれた内容に矛盾を引き起こし生徒を混乱させる。
本日の授業も、まさにそんな間違いを引き起こし、中盤に差し掛かったところで気づいて、今まで言っていたことを本人自らが
正反対の答えを唱え直し、大半の生徒が脱力し、何割かの生徒がこの授業で完璧なノートをつくることを諦め、机に伏し始めた。
そして、今まで、口頭のことも丁寧にノートにとって、本人的に綺麗にまとめたと満足感をもっていた生徒の一人は、
湧き上がる怒りを抑えようと、手に持っていた鉛筆を、バキリと、
そう、彼こそがこの話の主人公である、平和島静雄(現在16歳)である。
***
抑えろ。
今は授業中だ。
そう思えたのも、たった数秒。
さっき判明した間違いなどなかったかのように、相変わらず抑揚のない調子で授業を続ける教師に、
静雄は、たった今、意味の無くなったノートを広げている自分の机をブン投げる衝動を募らせつつ、
折れて二本となった鉛筆を再び握り締め、4本にする。
ばきり、と乾いた音が抑揚のない教師の声に紛れて教室に響き、
彼の隣の席の男子は、びくりと震え、そろそろと逃げる準備をし始めた。
彼の心中は理不尽な怒りに満ち満ちている。
教師って教える師って書くよな?物を教えて導く人って意味だよな?
けど、アンタは導くどころか間違えを教えやがったよなぁ?
しかも、間違えたことを謝りもしなければ、急に意見を変えたみたいに続けやがって!
これはあれだよな?俺に物を教える気がねえ証拠だよな?俺に物を知らずに馬鹿のまま社会に出て野タレ死ねってことだよなぁ?
これも立派な殺意だよな?
だったら、それに答えるのが筋だよな!?先生さんよぉ!
がしり、と静雄は机の端を掴み、じりじりとその高度を上げていく。
教室のなかは静かに、本当に静かに、平和島静雄を中心にして
さながら十戒のように割れ、教師は、教科書を読んでいるせいか全く気づかず、音読を続けていた。
ごくり、
誰かが固唾を呑んで、静かな日常の非日常を見守った。
きっとこのあと、あの教室にありふれた机が轟音を立てて黒板に突き刺さるのだろう。
その前に今、何も知らずに教科書を読んでいる教師に当たるかもしれないが、誰も声を上げることはしなかった。
ぎりぎりで彼の怒りの標的を変え、自分になるかもしれない行為はなんとしてもしたくなかった。
新しく赴任してきた教師と違い、散々、彼の暴力を垣間見た高校2年生であるそのクラスの生徒にとっては―――
が、その大勢の黒板に突き刺さる机の予想は外れることになった。
彼の目は、教室の前のほう(まだ彼の凶行に気づかない者がちらほらいるゾーン)で
零れ落ちて音もなくバウンドしていく、小さく白いものに一瞬視界を取られた。
それは、
言ってしまえば、ただの消しゴムだった。
爆発する直前の絶妙なタイミングで落ちてきたその消しゴムに、彼は、机を頭上に掲げた状態のまま、首をかしげた。
ほんの少しの疑問が、爆発のような怒りを少し抑えた瞬間だった。
「・・・・・・」
散々使われただろう、白くて丸くなった消しゴムは、ころころと転がり、三つ先の机の足にたどり着く。
思わず、その持ち主のほうへ視線を送るのは自然な流れだった。
消しゴムの持ち主は教室のまん前で、今だ静雄の凶行を知らず、真面目にノートをとっている女子生徒だった。
ポム、
女子生徒はノートに視線を落としたまま、恐らく、机の右側に置いておいただろう落ちた消しゴムを探して、手を彷徨わせる。
ポム、ポム、ポムポム…ポム?
あれ?と首を傾げて、その女子生徒は視線を目的のものをつかめない手の先へ向けた。
あれ?
そして再び首をかしげ、姿を消した消しゴムを探して、きょろきょろ。
だが、三つ先の、しかも机の足に姿を隠している小さな丸い物体に、女子生徒は気づかず、
ついには、今だ音読を続ける教師を気にしながらも、身を屈め、机の下にもぐり、きょろきょろ…
そして、やっとソレに気づいたらしく、横顔がパァアアア!と音が聞えそうなほどほころぶ。
発見した消しゴムを取りに行こうと、瞬間的に身を起そうとして、
なんとなしに見ていた静雄は思わず生ぬるい声を上げた。
「あ」
ガコン!
女子生徒は予想通り、頭をぶつけた。
「ぐぇ」
ぐももったうめき声を上げて、さながら防災訓練のときのように頭を抱えて少女は震えた。
けれど、負けない。
彼女は涙目のまま、何もしてない消しゴムを睨みつけ、一回今の音にも気づいていない、教師をちらりと見てから、
そろりそろりと、屈んだまま、教室を横断していく。その姿に一言感想を述べるなら、
なんとも、間抜け。
そして、その後ろで机を両手で掲げて少女を見ながら沈黙している静雄の姿と合わせると、なんとも、シュール。
机を持ち上げた静雄に気づいていたクラスメイト達は、机を持ち上げて沈黙している静雄をちらちらと見ながら、その現場を見守った。
辺りには、教師の念仏のような声が響き、彼女の滑稽な歩行が続き、彼のサーカスもびっくりな机を持っての直立不動、
そしてそれらを無言で見つめる少年少女達。
その場は静かなカオスに満ちていた。
その後、彼女は無事、消しゴムを手に入れ、ミッションコンプリートとばかりに静かにガッツポーズをして、
いそいそと自分の席へと戻った。けれどやっぱり最初と同じように間抜けな感じに。
それを見届けた静雄は、何を思ったのか、掲げていた机を静かにその場に戻し、折れた鉛筆の代わりと消しゴムを筆箱から取り出し、
ノートを修正し始めた。逃げていたクラスメイト達も続々と席に着き、そして、最後に、静雄の隣の席の生徒が椅子に腰をかけた瞬間、
キーンコーンカーンコーン
「じゃあ、今日の授業はここまで」
きりーつ、きおつけー、 れー
結局、何にも気づかなかった教師が教科書から視線を上げて、授業の終わりを告げたのだった。事は綺麗に収集した。
それからというものの、暴力が嫌いな彼は自分がキレそうだと感じると、視線を必ずといって彼女に向けるようになった。
もはや癖と言ってもいい。その度に彼女は間抜けというか、ほほえましいというか、そういう行動をしていたので、
彼のイライラを8割がた抑えるという驚異的な効果を上げた。けれど、後々に、彼女は彼の視線に気づくようになり、
キレる直前のその鋭い眼光に、身を震わせ、勘違いを起すのだが、これは別の話。