事故だった。
人と人の間に横たわる様々な関係において、私と平和島静雄との関係は、まぁ言えば悪いものでは無かったのだと思う。
彼はその特殊な体質と沸点の低い怒りのスイッチを除けば、まぁ、この混沌たる都会のなかで“良い人”なのではないだろうか。
少なくとも、人を愛すと書いて嘲笑うと読む折原臨也と比べれば好感の持てる人物だと思う。
彼の破天荒な怒りも、矛先が自分でなくて、私にとって無関係で価値の持てない人物だとすれば、私のような薄情な人間には、
どうでもいいものなのだ。むしろ、その型破りに飛んでいく、自動販売機だとか、ポストだとか、まったく筋力の弱い私には
小気味良くすらある。
最近では、昔作ったペットボトルロケットを思い出し、上空高く飛んでいった、ソレらに、爽やかさすら感じられてきてすらいる。
まぁ、それは余談だ。
私が言いたいことは、私と平和島静雄の、まぁ悪くなかった関係性と、私の少し薄情なところを知っておいて欲しい、というところだ。
ことの発端は私にある。
今日は人生で、初めて買った高いヒールのついた靴なんかを朝卸して意気揚々と、混沌の町、池袋へと繰り出したのが始まりだ。
そこで私はいつものようにブラブラと町を散策する。そして、そろそろお腹空いたな、と感じる正午頃、私は少し思うところがあって、
とある場所へと向かい、少しの期待と不安を胸にその場を見渡す。
そして、期待通りに結果を得るに相成ったのだ。
そこには仕事の休憩時間で外で煙草を吸っている平和島静雄の姿があった。
前にも述べたように、私と彼の関係は、それなりに友好的であった。
私は彼のもとへと、なんの不安も持たずに向かい、そして世間話に花を咲かせ、彼が私と同じように、まだ食事を摂っていない、
とのことで、共に食事に行くことになった。まぁ、ここまではいつもの事だ。
有名な彼のこと。それなりに、怪訝そうな視線を受けつつ、最近見つけた美味しい定食屋へと彼と話しながら歩いていく。
慣れたものだった。
キレていない彼は、名前を体言しているのだ。
そして事は起こった。
事故だった。
少なくとも、彼に非は無いと思うのだ。原因は全てとはいえないが私が悪いに越したことはない。
なんで、私はこんな無駄に疲れる靴を買い、そして今日という日に履いてきてしまったのだろう。
私は今、病院で診察の結果を聞いている途中だ。あんなに痛かった腕には石膏によって固められ、首から布で吊られている。
医者が言うには非常に強い力で一気に折れたらしく、折れた瞬間の音と比べて断面が綺麗で、きっと早くに治る、とのことだった。
少し年老いた感じのする医者は、患者を安心させるように笑う。
対する私は、その笑みの意図することとは正反対にイラついていた。
ふつふつと、苛立ちが言葉になって口から飛び出しそうになるのを抑えながら、「ありがとうございました」と頭を下げた。
心のなかで言っていることはまったく違う。私は部屋を出てから小さく言葉を吐き捨てる。
「勝手なことを言わないでよ」
こんな腕が早く治ろうが、折れた断面が綺麗だろうが、どうでもいい。いや、どうでもいいというわけではないけど、
それを言うべきは私ではなく、今、この部屋の外で自分を追い詰めているだろう、彼に言ってやってほしい。
この腕は完全に壊れたわけじゃなく、これは取り返しのつかないことではないのだと。
その、職業柄身につけたのだろう、無駄に安心を誘う表情で。
私にではなく。彼に。どうか。
私は、病院の待合室で椅子に深々と座り、膝に肘をおいて丸まるように額と目を隠す、彼の前に立った。
トレードマークのサングラスはきっと胸ポケットの中だろう。
そんな、どうでもいいことを考えながら、私は口を開く。
「すぐ、治るそうです。」
ぎこちない。
私にあの医者の真似事は向かない。どうしたって私の薄情さは、優しく人に接するという機会を奪いがちで、
どうすればいいのか分からない。優しくしたい人に優しくできないこの焦燥に、私は眉を顰めた。
けれど、彼が口を開いたことで、私は急いで眉を元に戻し、彼に誤解を与えないように勤める、しかし、それは無駄に終わった。
「悪い」
彼はその言葉を零しても、俯いたままだった。
急いでなんともない顔を繕っても、彼が見てないなら意味のない。
「静雄さんが悪いわけじゃないですよ。」
精一杯、あの医者の真似をして、話しかけてみる。
自分の声は丸みを帯びてはいるも、私にはどこか義務的感じて気持ち悪い。
けど、これは本心だった。
事は、私が悪く、池袋で恐懼の王である平和島静雄は悪くない。
そもそも、こんなことになったのは、私がなれない、高いヒールをはいてきたのがいけなかった。
私はヒールを排水溝の穴に引っかけ、みごとに転んだ。
しかも、ドジなことに転んだ先にあるのは車がものすごいスピードで行きかう道路。
彼はそれを助けようと、いつもは、いじらしいほどに自分からは絶対に触れないその手で、私の腕を掴み、
そして引き寄せてくれたのだ。悪いどころか命の恩人だ。彼は。
けれど、とっさのことで思わず、力を込めてしまったのだろう。
カルシウム不足が問題視されている現代の若者代表の私の腕は、
情けないことに、たったそれだけで折れてしまった。池袋最強と謳われる男に私の腕はもろすぎたのだ。
彼の善意を踏みにじるような鈍い悲鳴を上げて、彼を否定したこの腕。
もちろん、彼のその特異体質が故だろうが、私は私の腕が情けなくてしょうがない。
耳を覆いたくなるような、あの音が響いた瞬間の彼の表情が瞼の裏に焼きついている。
幼い子供が音にびっくりして、なんの音?と首を傾げ、そして、しだいその音の重大さを理解して打ちひしがれる。そんなような一連。
私にできたのは、痛む腕を、大したことのないように振舞うことだけだ。
彼が私を必死に促さなかったら、そのまま定食屋に向かおう、と冷や汗を隠しながらブラブラする腕を無視しただろう。
だって、本当に情けない。こんな腕。
「静雄さん」
名前を呼べば、彼はゆるゆると顔上げた。なんて顔をするんだろう。誰だ、こんな人を自動喧嘩人形なんて言ったのは。
思わずもう片方の腕を伸ばして、青ざめた頬に触れようとすると、彼は身を捩って避ける。
「・・・・・・。」
ああ、線が引かれてしまった。
人と人の間に横たわる様々な関係において、私と平和島静雄との関係は、まぁ言えば悪いものでは無かったと思う。
彼は私に対して、不思議なほど沸点を上げれるらしかったし、私は彼を好意的に見ていた。
少なくとも、彼がこうなってしまった原因である腕を、心配するどころか、恨んでいるくらいには。
「・・・・・・。」
私は分からなくなって思っていた。
私はどうやって彼と話して、彼と食事するまでの仲になったのだろうか。
それを思うのはきっと、私がまたあの関係に戻ることを望んでいるからだろう。
心の中で彼の名前を意味もなく呟き続けた。
まるで見当違いなところへと進む歯車を押し戻すように。
「大丈夫ですよ」
私は賭けに出た。
私は基本的に薄情なので、彼のやることなすこと黙認するくらいには肯定的だ。けれど、これだけは了承できない。
彼の逃げる頬を捕まえて、目の前で揺れた肩に自分の額を押し付けた。
座っているとはいえ、長身の彼の肩の位地は私の頭に丁度いいので、そのまま倒れるように体重をかければ、
完全に彼に身体を投げ出すことができた。
頬に添えていた腕を彼の首に回し、一向に私を支えない彼の腕の代わりにずれ落ちそうになる私の身体を支える。
「腕、掴んでくれてありがとうございました。」
貴方は私の命の恩人のそれ以外はあり得ない。
私がお礼を言うことはあれど、貴方が謝ることはない。
けれど、そんなことをつらつら語ったところで、この人の恐怖を消せるわけじゃない。ということも百も承知だった。
首の下で揺れるこの腕が憎い。
一本じゃ身体が支えにくいじゃないか。
いっそのこと無かったらよかったのに。
私はやっぱり基本的に薄情だった。
私は彼がこれからとるであろう行動を予測できる。
彼は罪悪感や恐怖から、きっとこの人の溢れる町に溶け込むように、私から姿を消すだろう。
それは、暗黙の諒解のように、いつも決まった場所で、ただ煙草を吸っていた彼を私が見つけることも出来なくなるのだ。
なにか精密な機械にでもなったような頭が迅速にその答えをはじき出し、未来を見てきた預言者のような確信をもって私は考える。
彼は自分の力を誰よりも恐怖して、誰よりも否定したがっている。
それに私のなかの非情な人間が吐き捨てるように言う。
(それがどうした)
私はただただ途方に暮れて座り込んだままの静雄さんのワイシャツを片方の手で握りこんだ。
(せっかくここまできたのだ。逃がすものか。)
私は薄情者だ。
彼の過去に私のような似たような出来事があったんだろうことはなんとなく想像できる。
そして結果、彼は“できれば人と関わっていきたい”と愚痴を零す、実質一人になってしまった。
別れや、始まりもしなかった出会いがあっただろう。けれど私はそんな過去は毛ほども興味ないらしい。
そして、その別れも、出会いを拒んだ彼の行動も、彼の自己防衛だと知っていても、それを甘受する気はないし、優しさも持ちえない。
私は追撃し、崩落させる。
「―――明日、例の定食屋に行きましょう。刺身定食がお勧めなんですよ。その日に取れた産地直送の美味しい魚を使ってるそうで。
ああ、あれなら、サイモンさんの寿司屋でもいいかもしれませんね、久しぶりに行きたいです。」
肩に頭を預けたまま、彼を見上げた。
罪悪感と困惑と恐れと、そして少しの苛立ちを含んだ目とかち合う。
「 私 の 手 の 代 わ り に 食 べ さ せ て く だ さ い 。 」
「……」
「…アレです皆の憧れのアーンって奴です。
こんな公衆の面前で、平和島静雄が女にアーンなんてマレです。レアです。そして私は感動極まれり。
それでチャラにしま・・・・・・ごめんなさい、なんでもないです。」
ぎりぎり押さえ込まれた彼の怒りは、舌打ちと共に彼の腹のうちに留められたらしく、彼の頭が私の肩に乗る。
そして私の身体は弱い弱い、バランスが危なくなるくらいな力で支えられた。
「わかった。明日だな」
「はい」
危うかった賭けは成功だ。
そして、私は考える。
(このどうにもならない鬱憤を何かで晴らしてあげようか、そうだ、折原さんを呼び出してみようかなぁ)
彼の恐怖を利用して、言葉を使って防衛をさせず、そして少しの怒りを持って事態をうやむやに。
私の情は一般人が持ちうる糧を遥かに下回るだろう。
例えば自分に向ける情だったり、相手の心を慮る情だったり、自分と関係ない人でも最低限あるべき情も。それは多分・・・
「・・・・・・偏ったのかも」
「あ?」
「あ、いえなんでもないです。」と答えながら、これから彼が気負わなくてもいい感じに病院を出る方法を考える。
その裏で、私と平和島静雄の、まぁ良好な関係性に掛かる、自分の持ちうる全ての情を冷めた目で見つめなおしていた。
まあ、それでも、
治りそうもないんだけど。
私は静かに携帯を撫でる。