男が現れたのは、学生や社会人が家路へと急ぐ夜の7時半過ぎ頃のことだった。
神妙な顔付きで自動ドアの真下に立ち、ガラスでできた扉が左右に俊敏に開かれると、 客の訪れを店員に知らせる軽快な音と共に、男は明るい店内へと足を進めた。

店はありふれたコンビニだった。
駅の近くに開業し、地元のニーズに合わせた商品を仕入れることで、なんとかこの不況の波に浮かんでいる。 店長は今年30に掛かり、これからもこの仕事を続けていくかに頭を悩ませながら毎日を送りつつも、 新人のアルバイトの教育に精を出し、充実した日々をすごしていた。

現在、店内には、店長とアルバイトが二人。仕事帰りで新発売を買いあさっているサラリーマン風の男が一人、 女子学生が二人。夕飯を買いに来たらしいチンピラ風の夫婦、そして、今さっきやってきた神妙な顔をした男の計9名だった。 それぞれが、思い思いにコンビニ内で買い物をしたり、商品を並べたりするありふれた風景の一つ、の、はずだった。



***


だいたい、目につく新発売の商品をかごに入れ終わったサラリーマン風の男が、会計をするためにレジに並んだ。 いらっしゃいませ、とマニュアルをなぞるかのようにあいさつをした店員に、 「温めてください」と先手を打って出ようとしたサラリーマン風の男は、「温めてください」の「アタ」を、 そのまま痛みの悲鳴へと変え、自分をレジの前から急に押しやったものを見て、怪訝そうに眉を潜めた。

サラリーマン風の男に代わって、その場に仁王立つのは、ついさっき店内へとやってきた難しそうな顔をした男だった。 「ちょっと君」サラリーマン風の男が言いたかったのは「ここは俺が並んでたんだ」という不満の言葉だった。

けれど、自分にぶつかってきた男の手には商品らしいものは一つもない。 男は、自動ドアからレジまで、どこにも立ち寄らずに、まっすぐこちらに来たのだ。

商品ではない。ならタバコか、なにかの支払いだろうか。そう思ったサラリーマン風の男は、言い淀んだ言葉を改めて、 「君、」と目の前で背中を向けている男に向かって呼びかけた。けれど、返答も反応も無かった。 それを苦々しく思ったが、やっと視界に入ってきた日本人としてありえない男の髪の色をみて、 自ら声をかけることは潔く諦めることにした。そのかわり、今、男と対面してる女の店員を心配して、 男の横から、店員を覗きみる。


ここでサラリーマン風の男は、この髪が明るいオレンジ色の男の目的が、この女の店員にあるのだと知った。


***


コンビニの店内は異様な雰囲気に包まれていた。

会計するでも無し、なにか会話を交わすでも無し、 アルバイトの女の店員と、コンビニにやってきた男はそれぞれ向かい会い、 睨みあいのような、意味を含んだ視線のやりとりをしながら停止していた。

夜食として選んだ100円菓子の袋と牛乳パック入りの紅茶を持ってレジに並ぼうとしていた女学生の二人は、 レジの前で異様な雰囲気を垂れ流している、男、女の店員、サラリーマンの3人を発見して、 どちらともなく顔を見合わせ首を傾げた。「なにしてるんだろう?」「さあ?」 とりあえず、停止している二人を窺うサラリーマンの背後に並びながら、自ずと二人も前方の様子を窺う。

店員が何かをしているわけでも、その前に立つバンダナで前髪を上げている男が何かしているわけでもないらしい。 ただ、見つめあっている。学生の二人は、再び顔を見合わせて首を傾げた。「なんだろう?」「え、わかんない」

わからない、と言いながらも、女学生達は、なんとなくこの雰囲気は、と心に引っかかるものがあるのに気づいていた。 だから、口を閉じて、ぎゅっと持っていた商品を握る手に力を込めた。よくないものだと理解する一方、心のどこかが高揚とする。


もしかして、修羅場ってやつ?


***


次にこの事態に気がついたのは、一向に減らないレジの列を見咎めたもう一人のアルバイト店員だった。 何か、多く商品を持ってきた客が居たのかもしれない。品出しをしていた手を休め、隣のもう一つのレジに入ろうとしたところで、 バイトは、先輩のがまったく動いてないことに気がついた。彼女の目前には、見知らぬ髪の色が明るい男が立っていて、 彼女はその男を凝視している。男も見つめ返している。なんだか異様な事態が始まっているのでは、と、危惧した。

とっさに、「何やってるんですか?」と声を掛けようとしたところに丁度、声を掛けようとしていたが閉ざされていた口を開いた。

「何」

酷く機嫌が悪そうな声だった。
だがとりあえず、少しはこの雰囲気が解消されたように思えた。 少なくとも知り合いであったらしい。簡潔な言葉からそれだけは窺えた。 次に、問いかけられた男へと、事態に気がついた者達の視線が移る。

に問いかけることも忘れ、バイトもほかの彼らに倣って、男へと視線を向けた。
そして、気づく。


どうにも、この人、心底困ったような顔をしている割に、嬉しそうだ。



***


店長が事に気がついたのは、もうすでに、店内にいたほかの者たち全員がソレに気づいたあとだった。 休憩室から出ると静かな店内に気が付き、商品棚の迷路を抜け、現れた風景に、思わず足をとめた。

「…え、何してんの?」

店長はに問いかけた。
実際に、が何かをしているわけじゃなかった。

彼女はただ、業務をこなそうとレジに立っていただけだ。
ただ、その目の前が異様であって、その異様の原因は、ただ一人、 いつものようにレジで会計を平然と続けているにしか分かる者がいなさそうだから、 「何してるの」と彼女に向けて言ったに過ぎない。彼女はその問いかけに、返答を返そうとしたのか、 口が開き、そして、閉じる。店長のほうへと向いた視線は、横に逃げ、瞼に消え、 そして、次開いたとき、足元を酷く忌々しそうに睨んでいた。店長は戸惑いを隠せない。


「なんで、」


なんで、この人、土下座してんの?


***


目の前で土下座をしている男の背中を見てから、その目の前の冷やかな目をしている女の店員を見て、 夫婦の妻は、妬ましいような感想を抱いた。ここまでのことを男にさせるなんて。と思いながら、店員に探りを入れてみる。 なんの事情も知らないが、妻のなかではもうすでに、コレは痴情のもつれだろうと感づいていた。そして、大方、男の浮気だろう、と。

地面につきそうなほど下げた派手な色の頭を見て、選り好みする色だと思い、これが似合うのなら、 きっと顔はいいだろうにと、予想を付けた。そして、再び、女の店員へと視線を向け、 やっぱり男の浮気だ。と確認する。妻の目から見て、店員はいかにも真面目そうに見えた。

動かないレジに初めはイライラしていたが、この場面を見てなんのその、 目の前に起こった作り物ではない修羅場に、昼間のドラマに慣らされた心は自然と色めき立つ。 精々見てるこっちが楽しい展開にでもなればいい。妻は、面白がって他人の痴情を垣間見ようと、 夕飯の弁当の入った籠を夫に預け、延長戦を覚悟した。そんな妻を見て、夫はため息を吐く。 タバコが吸いたかった。けれど店内だからと我慢した。意外と良識は弁えているらしかった。



まったく、こんなところで。



***



ことの始まりとは何だろうか、と土下座をしている男改め、猿飛佐助が考えるには、 それは、二人が付き合うようになったその日から、もうすでに始まっていたのだと、主張する。


猿飛佐助はフットワークが軽かった。
それは身体能力的な意味でもあるが、この言葉の意図するところは、花と花の間を飛び回る蝶のごとく、 去る者追わず、来るもの拒まずのという意味合いでのフットワークである。

彼自身、愛想がよく、彼の周りにいるホストかよと突っ込みを入れたい集団のなかでも、とっつきやすい性格なため、 次の花も、次の走者も途切れることなく、彼の懐へとやってきた。彼はそのもの達を飄々と捌き、捌き、 上手に捌き切っていたため、今までは、綺麗に逃げ切っていた。

だが、その彼も、時折、どうしようもなく冒険をしてみたくなるときがある。

いつも飛び込んでくる子は、似たような色合いで、逆に言えば、飛び込んでくる自信がある子達ばかりだった。 自信に見合うだけの魅力があって、とても可愛らしく、誘う方法も心得ている。キラキラしていて、世界を持っている。 しかし、その合間合間を飛び回った彼の胃と舌は、少し疲れているようだった。 外食をやめて、お茶漬けでも頂きたい。そんな気分だった。

だから、と、彼は変わった色合いのものへと手を出すことにした。 そして、それが、とんだ食虫植物で、べったりと、自慢だった足を絡めとられ、 恐れながらも離れられなくなり、地べたに這うことに彼はなったのだ。



当時、お茶漬けのようにさっぱりとした関係がほしかった彼は、さっぱりとした関係が築けそうな人物を探した。 そして、見つけたのが、女の店員あらためだった。求めず、訊かず、べた付かず、 「ふぅん、そういうものなんだ」というスタンスの彼女は付き合っていて楽だった。 だが、彼にとって誤算だったのは、彼が次の場所に飛ぼうかという時期になってまで、そういうスタンスが崩れなかったところだ。


「別れようか」


その言葉は、彼の腕の見せどころになる、スタートの合図のピストルと同じような役目を持っている言葉だった。 言うなれば、ここからが彼の本番だ。いかにさらりのらりくるりと関係から逃れ、その後の悔恨を相手に残さず、 「しかたない奴」くらいの印象で止めるか。その戦略を練りつつ、さて、この子はどこから攻めればいけるかな。と 好戦的な気分で彼は挑んだ。


その言葉を受け、彼の部屋でまったりと雑誌を捲っていたは、次に捲ろうとしていたページを中途半端にして、 こちらを見て言う。


「なんかあったの?」

「ん、んー…ほかに好きな子ができて、告白したらOKだって」

「…そう」

いくつか出てきた作戦のうち、「ほかに好きな子ができた」をセレクトし、彼女の反応を待つ。 泣いてみるか、怒ってみるか、今までなかった相手だけに予測がつかなかったが、「必ず、別れてみせる」と佐助は意気込んだ。 泣いたらどうしようか。怒ったらどうしようか。一歩先を読みつつ、さっぱりしている彼女のいつもと違う表情を見れると思うと、 ちょっと面白い。いや、これから別れるんだけど。


「……」

「……」

「…アレ」

「ん…?」

「あの…別れようか」

「そうだね。ほかに好きな子がいるなら、仕方ない」

「…それだけ?」

「…え、ああ、じゃあ」


お邪魔しました。と雑誌とともに部屋を出ていくをしぶとく観察してみても、そこに悲しみも怒りも観測できず、 今までなかったほどさっぱりとした別れは、今までになかったもやっとした感覚を佐助に残していった。

そして、それから早くも数日後、そのもやは成長し、地表に落ち、 ねばりぐちゃりべちゃりと、呪いのように張り付いて、彼のフットワークは死んだ。




「ほら、よくあるじゃん、男と別れたあと、男を好きだった分、憎らしく思えるとかそんな話」

「はぁ」

「まぁ、仕方ないと思うけどねぇ、でも、気持が通じ合ってなきゃダメじゃん?だから、憎んでも意味ないよねぇ」

「そうですね。両想いのほうが幸せですし。」

「怖いよねぇ、かわいさあまって、神社で藁人形に釘を打ち付けて…丑の刻参りっていうの?」

「はぁ」

「足とかさ、重点的に狙ったらきっと指を何回か間違って打ちつけちゃって痛そうだし」

「なんで足?」

「頭に蝋燭つけてさ、熱いでしょあれ。危ないよね。火傷しそう。顔とか火傷したら大変だよ。」

「知りませんよそんなの」

「しかも、深夜やんなきゃいけないし、見られたら効果ないっていうから、人気のないとこでやんなきゃいけないんでしょ?」

「はぁ」

「そんなところにさ、誰かいたら危ないって!女の子一人でそんなとこ行っちゃだめだよ!いくらハンマー的な武器があるからって」

「やってませんよ」



***


コンビニの店内が、異様な雰囲気になって、数分、
事の中心にされてしまったは、各方面からの人でなしをみるような目線に耐えかね、 この前入ったばかりの新商品のパンを会計するのを諦め、レジから離れることにした。

分かれてから数日間、なんだか奇妙な方向性で絡んできて、真意を言わないまま、果てには、土下座までした男の目の前に立ち、 「何」と話しかける。すると、男は、どこか嬉しそうに顔を上げ「ちゃん!」と、また湾曲したことを言い出した。

「やっと話してくれる気になった!?」

「昨日も電話で話しましたよね。藁人形の話」

「だって、さっきまで無言だったじゃん?なんか怒ってるのかなぁって」

「仕事中なので」

「うっそだぁ!絶対怒ってたね!何に怒ってたの?言ってみてよ、直すから」

「それより、何の用ですか」

「…いやぁ、実はさ、少しいろいろ整理しようと思って、ほら!携帯とか」

「ケイタイ」

「アドレスを、学校と、実家と、友達だけ、に、しようかなぁって思って」

「…いいんじゃないですか、わかりやすいし」

「うん、凄くわかりやすいよ!あ、でももう一人くらい入れときたいなぁ、誰にしようかなぁ」

「新しい彼女さんですか」

「お願いします!別れないでください!!」


ああ、と周りが生ぬるい雰囲気になったのを肌で感じ取り、は、この空気が堪らなく嫌になった。
仕方がないので、しゃがみこんで、ほら、立ってと土下座を続けようとしている佐助をその場に立たせる。 にとって、なにも別にこの男のことが憎いわけじゃない。

「私も、ちょっと素直になってみようと思うんです」

「うん」

今がどうであれ、ほんの数日前は幸せの定義に乗っ取った恋人だったのだから。


***


サラリーマンはレジに中途半端に残された新発売のパンを不安に思っていた。
ふんわりが売りだというパンは一体誰が会計をしてくれるんだろう。 けれど、そんな不安は途中でぷっつりと途切れ、サラリーマンは意識を失う羽目になった。 その時、サラリーマンの後ろにいた女学生達は、キャッと肩を窄め可愛らしい声を出していたが、反応は早く、 倒れこんできたサラリーマンの体からいち早く飛びのいた。 もう一人のバイトは大人しかったはずののあまりの行動に驚愕し、思わず店長のほうへと目配せをしていた。 店長はというと、二人の男がガムやら細かいものが並んだ商品棚につっこみ、商品が派手に飛び散る様に頭を抱えていて、 バイトから送られる、「ねぇ、さんすごくね?腕力すごくね?」という視線には気付いていなかった。 その後ろの夫婦の妻は「あらあらまぁまぁもっとやれ」という風だった。 隣の夫は、あの嬢ちゃんいい拳持ってんじゃねぇか。と変な方向に関心していた。
そんな状況のなか、拳を定位置に戻したが口を開く。


「次、浮気したらですね、」

「はい」

返事をしながら、佐助は思い起こしていた。別れ話の後、平手で殴られたことはあったにはあった。 しかし、拳で、しかも自分が後ろに吹き飛ぶくらいの威力を持ったものは、今までの人生のなかで、 友人とその友人の師匠くらいなもので、その二人は両方とも漢と書いて男だった。

腫れた頬に手を当てて、その威力に「これがちゃんの素直な愛!」という妙な感心をした佐助は、 商品とサラリーマンが飛び散る床から、恐ろしく愛おしい発言をするを見上げていた。

「その時は、貴方を殺して私も死にます」

「ありがとうございます!」

息つく暇もなく実に重い愛に答え、ふらふらとしながらも立ち上がり、 晴れ晴れとした表情で佐助もそれに倣うことにした。

「やっぱりさ、俺様、べたべたされんのも嫌だけど、さっぱりされるのも嫌みたい」

「はい」

「どうしようもないんだけどさ。今度俺様が不安になったらしょうがないから逃げられないように、一生監禁するね」

「よろしくお願いします。」


そうして二人は抱き合って永遠の愛を誓う。

サラリーマンは気絶し、女学生はその場の雰囲気で拍手をし、 バイトは世界の恋人達にすべからく爆発しろと思い、店長は転職を決め、 夫婦の妻はつまらなくなり、夫は早く会計をやってくんないかなと思い、
その日、はバイトをクビになった。







マッチポンプな恋人達