“このトラネコ、もともとは野良じゃないらしいです。”


ド畜生が。とその猫は悪態を吐いた。

彼は、彼が生れ落ちた場所に良く似たところを転がるように駆け抜けて、とにかく今まで自分の家だと思っていたところから離れることに全神経を注ぐことにした。 家と家と間をすり抜けて、塀の上を駆け抜けて、時には屋根の上にものぼり、走った。
その間に埃と泥で、自慢だった縞の入った毛並みが汚れるのを横目に、どうせなら真っ黒になっちまえ!と彼はもっと足を速めた。

彼は猫ながら、怒っていた。

自分の境遇にも、自分を育てた人間にも、自分の親にも、自分を騙した全てのものに牙をむいていた。 怒りが爆弾のように体の中心に熱を集め、体を粉々に爆発してしまいだった。 そうしないためにも、とにかく、速く、速く、走って、あの大きな建物から遠ざかることを願った。

高かった陽が、斜めになり、あたりが赤く照らされる頃、あの建物が完全に見えなくなった頃に、 猫の彼は足を止め、軋む肺にイラつきながら、とぼとぼと河川敷を歩いた。

思い出すのは、人間の皺だらけの大きな手。冬の日には暖かくてたまらなかったあの手。 秋に差し掛かった今の季節の夕方は、枯葉のかさかさという音も相まって、空しさや物悲しさが付きまとう。 それがどうしてもあの手を思い出させてしょうがなかった。――クソジジイ、再び彼は悪態をついた。

***

彼は路地裏に置き忘れられたダンボールで生れ落ちた。 気づけば、彼の隣には痩せた母猫がいて、自分と同じような兄弟達が自分と同じように母猫に毛づくろいを受けていた。 彼は、そのことを認識して諒解した。自分は、猫だ。きっと野良猫で、この母猫は自分の母親だ。そうして状況を飲み込むと自分を守るように丸くなって眠る。 そして、彼は母猫にほかの兄弟たちと同じように世話をされ、育っていった。そうして数ヶ月がたっただろう、 まだお互いにじゃれあう兄弟達を横目に、彼は母猫から離れて、一人で行動するようになった。早い一人立ちの時季だった。

彼は上手に生きた。他の猫は彼に適いやしない。エサの獲り方ひとつとっても彼は群を抜いていた。 彼は恐ろしく強く賢い猫だったのだ。うんと小さな子猫の頃から、ほかの兄弟達や母猫の何倍もの賢さや力があった。 例えば、兄弟達が虫で狩りの練習をするころには、彼は立派に小鳥をとってみせてほどだったのだ。

しかし、まだ、若く、経験のない彼は人間を知らなかった。

一人立ちした彼は、初めて足を踏み入れた土地の薄暗い路地で辺りを見渡しながら歩いていた。ほかの猫のテリトリーではないらしく、彼以外の猫の姿は見えない。 フン、面白くない。と、縞の入った大きな尻尾を揺らしていると、彼の鼻が奥のほうから匂う美味しそうな肉の香りを察知した。 彼はいつものように、恐れることなく足を進め、そして、ぶら下がる上等な肉をみつけた。

もし、彼がそのとき、少しでも、上の方を見たならば、賢い彼は一瞬で気づけただろうに、彼はそうしなかった。それはおそらく自信から。 上の方で待ち構えていた、その鉄の檻は、甲高い音を立てながら無常にも彼を閉じ込めた。

そして、数時間、彼は鉄の柵を攻撃しながら、その檻を憎んだ。そして、縞の入った毛皮に血が滲んできたころ、一人の人間が現れる。 その人間は彼を見て、じっくりと観察したあと、「こりゃあ、いい」と笑った。彼はこの檻を仕掛けたのがこの人間だと気づいた。 それから先のことを彼は覚えていない。その人間の喉笛を噛み付くために、檻に突進し意識を失ったからだ。


気がつくと、彼は家のなかにいた。彼が外から見ていた人間が住む家のなかだ。 檻はそのままだったが、怪我は手当てをされ、一度自分が出されたことがわかった。 彼は毛並みを膨らませ、その場に伏せた。今度この檻が開いたら、今度は確実に喉笛を噛み切ってやる。と考えながら。

しかし、彼のその思いは叶うことはなかった。 人間は彼を檻から出すまえに、長い針を彼に突き刺して、彼を眠りに落として手当てをした。 怪我が治り、彼が彼の一度目の運命の場所にたどりつくまで、彼の記憶は曖昧だ。常に眠りと憎しみに揺れていたことだけは彼は覚えている。

そして、彼は、一度目の運命の場所へと連れていかれることになる。

***


始めに思ったのは、なんだこのジジイ。というやっぱり彼ならではの悪態だった。 数週間、入りっぱなしの鉄の檻のなかから、真正面にゆったりと座った老人を睨みつける。

自分を閉じ込めた人間は、この老人に何か得意に話しかけているが、彼は自分を見る老人の優しい目が気になって仕方なかった。 そして、老人も、隣で身振り手振りをつかって喚いている人間など気にもとめず、彼をジッと見つめ、そして優しく笑った。彼は睨むのを止めて目を見開いてしまった。

「どうでしょう、この立派な縞!これぞアビシニアンの証拠ですぞ!」

突然、檻の天井がバン!と音を立てた。隣の人間が檻を叩いたらしい。彼はフーッと人間を威嚇して抗議する。うるせぇ!

「こらこら、叩いたら猫がびっくりするだろう。」

「あーすみません・・・」

興奮が冷めたように隣の男が椅子に深く座りなおした。

「で、どうでしょう、血統書つきですので、お高くはなりますが・・・可愛い猫ちゃんでしょう?」

まさに猫なで声に彼は毛を逆立てた。気持ちわりぃ。
そもそも彼は自分の置かれている立場が分からない。アビシニアン?お高い?なんのことだ。

「そうですね。綺麗な猫だ。」

老人が、猫に向かって手を出すと、隣の人間が慌てたように「あ、慣れていないと少しこの子臆病になるみたいで、手は出さないほうが」としどろもどろになりながら、 言った。が、老人は手を止めず、彼の喉を撫でた。彼はといえば、噛み付くことなく、されるがままにしてやった。 老人の目には彼に対する尊敬と愛情があったから、彼は悪い気はしなかったので噛み付かなかった。

「ほら、可愛い猫ちゃんでしょう?」

人間はつくろうように言った。老人は手をひっこめて、目を閉じながら、「分かりました。かいましょう。」と机に置かれた書類に判を押した。 彼は、人間と優しそうな老人を交互に見て、人間が一瞬にやりとしたのを見た。なにかしらねぇが胸糞わりぃ。


「では、檻をあけてやってください。」

「はいはい、少々お待ちください」

最後の最後で油断したのだろう。人間は彼を眠らせずに檻を開けた。
彼は人間の、ご機嫌で赤らめた鼻に思いっきり噛み付いてやったのだった。ざまぁみろ。

***

それから、彼は老人の家で暮らすようになった。 老人は本当に優しく、彼を丁寧に扱った。あの檻に仕掛けられた肉よりももっと上等なエサを与え、彼のために一部屋用意し、 そしてメイドをつけた。彼はそれを当然のように振舞った。彼に触れるものたちは彼に「なんて立派な毛並みなのでしょう。」と褒め、 敬った。それもいけなかったのだろう。彼はもとの性格に加え我がままになっていった。花瓶を割り、テーブルクロスの上を悪者顔で歩き回り、カーテンを引き裂いたりした。

そして、そのたびに、老人は彼を怒ることなく仕方なさそうに許していた。 だが、ほかの人間達は老人にならい怒りを抑えはするが、無理やりな笑顔でぶるぶると震えていた。 彼はそれを見るのが面白くてたまらなかった。

(どうやら自分は特別な猫らしい。)

そういうことに気づいたのもその頃だった。

彼を褒める言葉には「アビシニアン」という言葉と「綺麗な縞」という言葉が多くでる。 とある無知なメイドが先輩のメイドに「アビシニアン」ってなんですか?と訊いているのを偶然彼は聞いて、やっとその内容を知ることができた。

「アビシニアンっていうのは、高級な猫のことよ。とても高い猫で、血統書付きの、とっても綺麗な縞模様が入った猫のことなの。」

彼は自分の体の縞を見た。そうだったのかと、いい気分だった。ジジイもこの縞のことを褒めていたし、 自分はそのアビシニアンに間違いない。

自分は特別だったのだ。

そう特別!

同時に彼は選ばれなかった、母猫と兄弟達を思った。しかし、自分は奴らより優れていている。自分が選ばれたのは当然だったのだ。 薄汚れた路地裏なんて自分には相応しくない。彼は、息巻いて、高い自室から地上の道を見下ろした。 この道のどこかを這いずり回ってる自分の兄弟をあざ笑い、足元の磨かれた木目に爪を立ててそれを研いだ。

(俺は特別だ。)

けれど、その優越感は、ほんのわずかな間のことだった。

***

老人には息子がいた。
老人には似てない、黒い髪の顔の怖い息子だった。そいつが老人の部屋にはいってきたのを彼は横目でみながら、顔をしかめた。 彼はこの息子が嫌いだった。切れ目の目には猫に対する嫌悪感しか浮かんでいない。隙あらば邪魔だと自分を蹴ろうとする嫌な奴だった。 息子が忌々しく猫を見て言った。


「親父、いつまでこの猫の我がままを許しておくつもりだ?」

どうやら自分の話題らしい。
不遜に目を開き、息子を睨むと息子も彼を睨みかえした。

「猫のやることじゃないか。」

「代々受け継いだ家具に穴や傷をつけて、高い花瓶を割って、メイドを転ばせて怪我をさせても、猫のやることだ、と片付けるのか?」


メイドを転ばせたのは事故だったけど事実だった。彼は顔を伏せて、寝たふりをする。


「しかし、」

「しかし、もなにもあるかよ、なんだって、こんなただのトラネコに。」

ただの、ただのだって?

「親父は騙されたんだよ!アビシニアンだって?ふざけるな!こんな野良生まれの雑種にこんな高い金払いやがって!」

彼は耳を疑った。 アビシニアンじゃない?
彼は目を開いて、自分を指差しながら喚く息子を見た。

「だが・・・」

「血統書は偽物とわかっただろ!?もう、我慢の限界だ。

 親父。もうすぐ俺の子供が産まれるんだ…。こんな凶暴な猫が居たんじゃ、妻が安心していられない。」


彼はただのトラネコということを否定してくれない老人を見て、立ち上がった。
そして、さきほどとはうって変わって、眉を下げて困ったように言う息子を見て、脚が妙に軋むのを感じた。

――ここにいたくない。


「だが、あの子をどこにやれば・・・」

「金を握らせて頼めば誰でも大丈夫さ。」

「だが・・・」

老人は目を伏せた。

一方、彼の頭のなかではぐるぐると思考がまわっていた。自分は、アビシニアンじゃない。特別じゃない?ジジイは知っていたのか? じゃあ、なんでメイド達に否定しなかった?なんで自分を買った?あの人間はなんでアビシニアンなんて嘘をついて自分を売った? 自分は結局あの兄弟達と同じなのか?自分はこの家から追い出されるのか?買ったのに?アビシニアンじゃないからか?

―――ふざけるな!!


彼は足元のソファーを引き裂いて、二人に向かって牙をむいた。息子が叫んで、彼に掴みかかったが、彼は軽く避け、息子の腕を深く引っかいて 老人に向かって走った。そして、口を開いて噛み付いた。老人はとっさに腕で顔をかばったため、腕に深く噛み付くことになった。 彼は、そのまま、老人に訴えかけるように力を込める。なぜ!どうして!なんで!

老人は彼の必死さにハッとする。この子は理解していたんだ、と老人は気づいた。フーフーとと盛り上がる毛並みを弱弱しく撫でる。

すまない、すまない、と謝る老人の目を見た彼はびくりと体を震わせた。



―――ここにいたくない。

そうして、彼は駆け出した。

後ろから捕まえようとした息子を避けて、走る、走る、走る、
お茶を届けにきたのだろう、扉を開けたメイドの足元を潜り抜け、玄関のほうへ、そして外へ。

―――ここにいたくない!

足が震えるように軋んで、まるで地面についていないようにふわふわとした。
それでも、感触を思い出せるように、強く地面をけって彼は走った。

すまないだって?―――ふざけるな!

あのジジイのことだ、俺のことなんか最初からお見通しだったんだろう、同情でもしたっていうのか?――ふざけるな!


人間なんて―――


その時思ったのは、“嫌い”なのか、もっと酷い“死んでしまえ”なのか、もっと違うなにかだったのか彼は忘れてしまった。 それからの生活は酷いもので、贅沢に慣れた彼は野良の生活に戻ることが出来ず、腐りかけのエサが喉を通らず、彼は自慢の毛並みを失った。 そして、冬のある日、奇しくも、彼が一度目の運命の場所に着いた頃と同じような日に、死にかけた彼はその女と出会う。


***


「おぉう、びっくりした…生きてる?」

(・・・なんだコイツ)

「うーさむ、お前も寒そうだねぇ、うわっ毛並み悪ぅ」

(・・・チッ、動けねぇ、動けたらカッ消してやる。)

「あーでも、ちゃんと食べたら綺麗そうだぁ、そのシマシマー、シマッシマー」

(・・・・・・。)

「あはははー・・・・・・よいしょっと、生きたホッカイロだ・・・・・・あはははははははー」

(・・・!!?)



彼の二度目の運命の場所は、一度目より質素で、路地裏よりかは居心地のいい場所だった。