“アロワナは水面に近付いてきてピューと水を吐く。”
(いい加減にしやがれ!)
アロワナの彼は大きな尾を揺らめかしながら届かない叫びを上げる。それは彼の入った水槽を容赦なく叩く無数の手に向けてだ。
叩かれるガラスは、振動を水に伝え、腹を打つ。それは、体を叩かれるのと同じだった。
彼はもう一度、身を捩って叫んだ。
(いい加減にしてくれぇ!)
さっきよりも懇願的になったのは彼の必死さを伝えるようだった。
彼を苛立たせるこの無数を手は、人間の若い男女の手の平だった。
彼が身を捩るたびに、男女は歓声を上げて水槽を叩き、「こっちむけー」と彼に言う。
彼はそれどころではない。まだ柔らかい鱗をバンバンと叩かれ、体が軋んでしょうがなかった。
ビクリビクリと泳いでは、横目で男女をにらみつけた。けれど、伝わることはなさそうだ。
ここは、とあるペットショップの一角だった。
彼はここがどういうところか知っていた。ここは人間という生物が自分より下等な生物を購入し、そして、その生物を育てて楽しむための場所だ。
そして、自分も人間より下等な生物の一つであって、自分は水のなかでしか生きられず、
水のたまっているこの透明な区切りからその先へ進むことはこの先ずっと訪れないのだろう、と、水がなく、果ての見えない空間を悠々と歩いていく人間を見ながら
彼はいつも眺めて過ごしていた、今日も、そのいつもの日のことのはずだった。
しばらくしてこの二人の男女の暴挙にやっと気づいた店員が、二人に注意し、束の間の安息を彼は手に入れた。
しかし、男女は悪びれずに、アロワナってコレですよねー?探しに着たんですけど、ほんと綺麗ですよねー、などと言っている。
店員はムッとしたようだが、職務を全うするためにか、すぐさま笑顔に接客を始めた。
やっと静かになった水槽のなかで、彼は三人を横目で見た。
まさか、方便だろう。と高を括ってしまえばよかったが、男の腕に人目も気にせず寄りかかる女が、何度も男に購入を勧める声が耳障りだったし、
揺らぎそうな男の表情が気に掛かった。3人の人間は、そんな彼を知らず、ニコニコと笑いながら話している。
彼はとても嫌な予感がして、水槽のなかで身を捩った。
結果から言えばその悪い予感は的中してしまった。
店員はアロワナの飼育方法や、注意点などを説明し始めるが、男はその声をさえぎって、「その魚買いますわ。」と懐から銀色に輝くカードをだした。
女は男に一層寄りかかって、キャーと叫ぶ。でも…と、口ごもった店員に、男は「売らねぇの?ここペットショップだろ?」とカードを揺らせて見せた。
少し、言葉をとぎれとぎれにさせた店員だったが、なす術はなかったようで、少々お待ちくださいと、彼の入った水槽のフタを開け始めた。
水槽のなかで、彼は暴れた。最悪だ!こんな奴らに買われるなら、死んだほうがマシだ!と水槽から身を躍らせれば、下に用意してあった容器に彼の身はすっぽりと包まれる。
男が思わず笑って言った。
「コイツ、俺に飼われたがってんだなぁ!」
(そんなわけあるか!)
せめてもの抵抗に、彼は大きな波を作って水面で跳ねさせる。
しかし、それは奴らに届くことなく、敷物の敷かれた床に吸い込まれただけだった。
***
彼は、まだ稚魚に近く小さかった。しかし、今回は、それが幸いとなる。
彼を持ち帰った男女は、市販の小さい水槽に彼を入れ、彼を飼ったのだ。彼の将来の成長具合を考えれば、ありえないことだ。
彼は、ことあるごとに水槽を叩かれる生活に苦痛を感じながら日々を過ごした。
けれど、まだ、気にされるだけ、その時はよかったのかもしれなかった。
突発的物欲故か、だんだんと、彼らは彼のことを忘れるようになったのだ。
餌も水換えも、されない日々が多くなった。水は淀み、ぬめる。彼は汚れ始めた水の中でため息を吐いた。
(やっぱりこうなるのかぁ、)
憤りを過ぎ、彼は人間に対して諦めていた。奴らは自分勝手で、向こう見ずな生き物だ。
彼は自分が買われた理由を聞いていた。男女のうち、女が知り合いの飼っているアロワナの話を聞いて、男に「かっこいい」からという理由で買わせたのだった。
年々狭くなる水槽のなかで彼は身を捩る。そんな理由のために自分はこんなところにいるのかぁ。あらためて考えると存在までもが、
なし崩しになってしまいそうだった。
どうせなら、代わる代わる人が覗き込んで落ち着かないが、まだ世話をしてくれていたペットショップに戻りたかった。
あそこに戻れるならば、まだ、自己というものも、待つ存在として確立できるだろう、と彼は思う。
餌も綺麗な水もない最悪な環境で、それでも、彼がなんとか生き延びられたのは、彼がほかのアロワナよりも生命力が強く、賢かったからだった。
餌が無いとき彼は水面近くで水を吐いて、床をぬらすことで人間に知らせ、水が汚いときは餌をやりにきた人間にその水をかけてやった。
そうすることで、彼は細々と狭い水槽のなかで生きてこれていた。
しかし、ある日、それをしても、どうしようもないことが彼を襲う。
「やっぱり邪魔なのよ」
女が水槽を前で呟いた。
女はすっかりアロワナに対して興味を失ったようで、彼に目をむけたのも久しいことだった。
女が言うには、リビングのテレビの横に置かれた彼の水槽は、新しく購入した大きなテレビの邪魔になる、らしい。
テレビの購入理由は、大きなほうが映画みたいで「かっこいい」から。自分が買われた理由と同じだった。
女は男に言った。
「ねぇ、どうにかしましょうよ」
女は、床を汚したり、水をかけてきたりするアロワナをとくとく非難し、男に促した。
そして、男はやっぱり頷くのだ。
「そうだな。」
(だったら、最初から買うんじゃねぇ!!)
彼は叫んだ。諦めたはずの人間に対する怒りが再び湧き上がった。
隣にあったテレビに水をかけると男女が怒って、近寄ってきたので、水槽の水が半分になるまで水をかける。
濁った水を掛けられ、濡れネズミとなった人間は、まるで話を理解していたような素振りをするアロワナに異常に気味悪がって、
女は男に縋った。
「気味が悪い!」
そして、その夜だ。
彼は、減った水のまま車のなかで揺られていた。どこか家から離れた場所に着くと、冷たいアスファルトに降ろされた。
車はそのままUターンして、帰っていく。
彼はソレを見ながら、
やっぱり、諦めた。
人間の自分勝手さに怒ることも、悲しいとも、思わない。ただ、目に焼きついた車のライトがチラチラと煩わしかった。
早く、この上に広がっている闇にとっぷりと沈んでしまいたかった。
図らずとも、まだ寒い季節のことだ。冷やされた水槽は、彼を容赦なく、衰弱させ、意識を奪っていく。
(人間に振り回されるのはもう、十分だ)
静かな水槽のなかで、彼は一回、身を捩って、一つ泡を吐いた。
***
その夜の明けた早朝。彼が気がつくと、水槽が運ばれていた。
揺れる水のなかで彼は上を見た。人間だ。また人間が自分を振り回すのか。
彼は水を吹いた。人間の顔面にかけてやるつもりだったが、勢いが足りず、届かなかった。
だが、気づいた人間が此方を覗き込む。
「活きがいいのぉ」
それが、結果的に彼の現在の居場所に繋がることになったのだから、
そのあとに人間のせいで、まな板がトラウマになったことだけは、彼は目を瞑っている。
***
「ああー…やっぱり大きくなるのね…」
(……)
「あー…、とりあえず、今買える範囲の水槽買って…備え付けなきゃいけないような水槽が必要になるまで積み立てかなぁ」
(あ゛!?)
「足りない分はお父さんから出してもらうってことで」
(う゛お゛ぉ……お前、押しつけられキャラだなぁ…)
ひたひたと、指で二回水槽を優しく触るそれなら、なんだか、彼は、好きになれそうだった。