“ほかの家のネコを虎猫が誘拐してきたのかも。”
鋭利な牙を見せながらその猫は人間嘲笑った。
何が違うんだ。皆同じじゃないか。
皆、切り裂けば血がでて肉がむき出しになり、そして飲み込めばそれは自分になる。
皆同じ。
ほんの少し、声を落として彼は繰り返した。
彼にとっての常識は、産まれたころからずっとあったように思う。
産まれた場所では、自分と同じ種類であるらしい猫達にあふれ返っていたが、
そのメンバーがときどき入れ替わっていることに、やっと目が開いた彼は気付いていた。
彼が産まれた場所、そこはペットにする動物のブリーダーの家であり、彼もやがては出荷される商品の一匹だった。
その日、彼は母猫と兄弟達に囲まれた状態で、煩わしそうに耳を喚く人間へと向けた。
まだ目がやっと開いたすぐあとだったが、その騒音とはずいぶん長い付き合いに彼には思えた。
そう、彼が産まれるまえからこの家はずっとこうなのだ。
「しかたないでしょう!それともなんです?この子たちに死ねと言っているんですか!?」
玄関で喚く人間の声がした。
その声を余計煽り、けたたましくするのは、この家の周辺住民だと、賢い彼は知っている。
「猫の声がうるさい」「家の外に放置してあるゴミ袋から悪臭がする」など、十数年、積りに積もった周辺住民の苦情の声だった。
それもそうだろう、と彼は欠伸混じりに思った。この一般的な一軒家にいる猫の数は約30匹に上り、もはやパンク寸前。
いくら猫と言えど30匹ともなれば糞尿に塗れた砂の量も、この女一人では処理しきれないのは目に見えてあきらかだった。
彼にとっても、この家は狭く、テレビに映る城や豪邸の、肉の厚い絨毯のひかれた広い部屋にあこがれるほどだ。
足の肉球を押し返してくるような絨毯と比べたら、汚れたフローリングなんて、歩く気もしないほど冷たいし、
おそらく自分の親戚なのだろうけど、他の猫らにストレスを感じることもないだろうに、と。
だから、周辺住民の言い分にも、ふぅん、と頷いてみるだけの思慮は彼にはあった。
だが、打開策も考えようともせず、いる猫の命を無視して、ただひたすら「うるさい」「臭い」「どうにかしろ」と、
感情を女に向かって叱責するだけの住民の訴えに、猫好きのただの女に術は無い、
だから、怒声を上げて、同じように感情のみで猫の命を訴えているのだろう、と、あえて彼はその喧騒を無視していた。
猫の言葉は人間には届かない。
そう考えて、彼は、小さく「うっぜぇ」とつぶやき、耳と顔を隠すように母猫の腹に埋め、子猫特有の耐えがたい眠りに身をまかせようとした。
けれど、ひょいっと、彼を抱き上げる手によって、逆に彼は目を見開くことになる。
その手はあの女の手だった。
「ほら!こんなに可愛いんですよ!?それを殺せって言うんですか!?」
怒声が頭の上から降ってくる。彼は喚く女の腕の中だった。
たじろぐ周辺住民をよそに、女は言った。
「ほ っ と い て く だ さ い !」
同じく、と彼は思った。
***
彼は賢いだけではなく、美しい子猫だった。
ブラウンタビ―と呼ばれる小麦色から濃いオレンジブラウンの毛皮のなかで、彼は黄色みが強く、
その光るような色合いの中に、濃淡のあるロゼットが野生の豹のようにバランス良く浮かぶ。
瞳は緑がかった金色をしており、ほかの兄弟達よりかは耳は丸め、そして、子猫ながら、しゅるりと長い尾が、
成長した後の彼の、無駄の無い流れるような美しい姿が窺える。
彼は由緒ある血統の持ち主であり、その血統を持つ猫を人間はベンガルと呼んだ。
ベンガルとは、家猫とベンガルヤマネコとの交配によって産まれた種類だ。
彼は家猫でありながら、血統の祖であるベンガルヤマネコの姿そのものといっても過言ではなかった。
そんな彼は女に一等可愛がられていた。ブリーダーである女は彼をこの家の王子だと呼び、
彼にほかの猫より高価な薬を与え、念いりに世話をした。
というのも、こういう、美しく、そして野性味あふれる家猫というのは、
とても人気であり、高く売れる。そして、動物のコンテストで賞に輝きやすく、人間にとってまさに金の招き猫という感じだったのだ。
そういう事情を彼はなんとなしに察した。それはまぁ当たり前か、と持ち前の長い尻尾をくゆらせて美しい彼は考える。
高く売れるなら、買う人間は金を持ってる人間だろう。そしたら、狭くて汚いここなんかとは、おさらばできる。
王子にこんな場所相応しくない!
王子と呼ばれる人間が、どんなところに住んでいるのか知っていたその小さな頭のなかで、
王子と呼ばれている彼は、将来どんな贅沢をしてやろうかと算段してみるのだった。
しかし、その未来は、彼に訪れることはなく、
彼は囚人のように閉じ込められ、あんなに広い外の世界をながめるばかりの存在になってしまうのだ。
そして、彼はポツリとつぶやいた。
同じだ、と。
***
決まっていたといっても過言ではない未来を変えた日、
その日も、周辺住民からの苦情と女の怒声が玄関で響いていた。
ああ、またか、と彼はいつもの知らんぷりを通そうと、母猫の腹に顔をうずめようとして、母猫の様子がなんだかおかしいことに気がつく。
目の瞳孔が暗闇でもないのに円に近く、耳が伏せ、毛並みが膨らんでいる。なんかヤバイ、と、彼は持ち前の勘で、母親の異常を危険と判断した。
柔らかい生きた毛皮のそこから、一人遠ざかり、まだ異変に気づかず寝ている自分の兄弟達と、身を起こし、ヒクヒクと髭を揺らす母猫を見やった。
玄関からは、人間達のどなり声がわんわんと響く、
たくさんの猫達吐息が耳の奥を擽って、
母猫は唸り、そして―――――
それを、残酷だと、要因になりうる人間は言う。
クロニズム。
言わば「子食い」という行動である。
書けばとても狂気に満ちた行動に思えるかもしれない、だが、自然界においてはけして稀なものではない。
母親は流産した胎児や死産した子供を食べることで巣の汚染を防ぎ、また妊娠で消費した栄養を補給すると言われている。
それは、次の命を繋ぐ大事な行動。
だが、この行動が子供の死産ではなく、周りの環境によって引き起こされる場合がある。
例えば、他に猫がいて飼育過密であったり、
例えば、飼い主が頻繁に覗くなどするため、母猫が落ち着いて育児出来ない場合。
ストレスを感じた母猫は、産み落としたのが正常な子猫であっても、クロニズムを起こす可能性があるのだ。
***
彼は、狭いゲージのなかに居た。
部屋のなかを歩きまわる、自分と同じらしい血統を持った猫をみるのは癪なので、
ケージの後ろの隙間から見える窓の外を眺めながら、彼は思った。
別におかしなことじゃない。
母猫が兄弟を襲ったことも、自分を襲ったことも、動物であるなら、命を持ったものなら、なんらおかしいことじゃない。
そして、人間も同じ。
母猫と兄弟達と、自ら血に塗れた彼に、勘違いを起こしたらしい女は彼をつまみあげるような乱暴な手つきで持ち上げ、
ただでさえ血で興奮していた彼は、がぶりと女に噛みついた。そして、それを彼は諒解したのだ。
切り裂いた先にあったものは、真っ赤な血。命の証。自分の証。
いくら、女が彼を恐れ、彼を閉じ込め、彼が変だ、兄弟と母親を殺すなんて狂ってると責めても、
彼には女がもともと彼を見誤ってたとしか思えなかった。
自分は、動物だ。獣だ。
そして、それはお前ら人間も一緒だ。
なぜなら、切り裂けば真っ赤な血が流れるじゃないか。
忘れているのは人間のほうだ。
そう思って、彼は、少しばかり体を丸めた。憧れていた宮殿が遠かった。そして、暖かった全てのものも遠かった。
彼はポツリとつぶやいた。その暖かいものが二度と手に入らないような気がしたからだ。
そして、その時、彼は、今自分がすっぽりと影に包まれていたことに気がついた。
太陽の差し込む窓の外から自分を見つめる一対の鋭い目。
それは、一匹の猫だった。自分と違った縞模様の大きな立派なトラネコ。
トラネコは彼に言った。
「そこに、どんな名前がつこうが、血なんざくだらねぇな」
アビシニアンだろうが、ベンガルだろうが、猫であろうが、人であろうが、それは小さな命としてのみに、唯一価値は有効なのだ。
まだ小さい彼は願った。その価値のなんて尊いものであるだろうか―――――。
トラネコはその賢い頭を使い、子猫を閉じ込める狭いゲージの鍵を開け、彼にとって白紙となった未来を改めて問い、
「勝手にしろ」と立派な尻尾を振った。彼はその尻尾についていくことにした。
自分の考えを証明してやるとばかりに力強く前を見据える、トラネコに。
***
「え、何?え、どこの子?」
(知らねぇ) (誰この女)
「は?え?どゆこと?」
(飯を出す女) (あ、もしかしてメイド?)
「こ、子供?子供なの?あ、けど模様とか全然違う…」
(メイドほど気はきかねぇ) (ふぅん、使えな)
「おおぅ!?珍しい!膝に乗ってきおった!ど、どうすんの?撫でればいいの?」
(だが、クソ寒ぃときには使える) (ふぅん…)
(なら、いいか) と、ヒョウ柄の子猫は、ふかふかな絨毯もない普通の家で、欠伸をしながら思ったのだった。