雨が降り続く日々が始まり、今日もまた陰鬱な雲が空を覆っている。
窓から見える通りや田んぼの畦にはピンクや紫の丸く整ったアジサイが咲き、
濡れた深い緑を彩っていた。
昼子は、暫くそれを見ながら考える。
姿を見せないまま空へと陽が登ってから、数時間は立っている。
朝というには遅く、昼というには早い。
本当なら、この時間は昼子にとって貴重な“行動”の時間ではあるが、
この雨では、それもできない。
朝食はとった。
本来のこの家の住人は勤め先の病院へ。
家のなかで一人となった昼子は朝のことを考えた。
▼2003年6月13日
その日を迎えた昼子は、朝食の席にて、しばし、発言の機会を窺い、手を止める回数が多かった。
それに気がついた宮田は不思議そうに「何か苦手なものでもありましたか」と発言を促したが、
言い淀んだ昼子は結局のところ「いいえ、美味しいものばっかりです」と返すに留めた。
その答えに対して、不満そうに「そうですか」と食事を再開させた宮田は、
しばらく昼子が何を考えているのか探るような眼をしていたが、昼子は気づかぬフリをしてダンマリを続けることにした。
言うべきが言わざるべきか。昼子のなかで、まだ答えが出ていなかった。
「誕生日おめでとう」
その言葉を相手に述べるのに躊躇するというのは、記憶がある限りでは昼子にはない。
そもそも誕生日というのは祝い事なのだし、産まれてから今の今まで生きぬいてこれた喜びの日でもある。
大事な人と喜びを分け合うもよし、お酒を買いに行ったときの年齢確認や、
検問、職務質問での身分証明のさい「あ、今日誕生日なの?おめでとう」と他人から祝われるもよし、
誕生日とは、とてもライトに扱うことのできる祝い事であるはずだ。
しかし、“知っている”昼子は、その言葉を“宮田司郎”に言うのを戸惑っている。
果たして“彼”に言ってもいいのだろうか?
その答えがでないまま、時刻は昼を迎えようとしていた。
朝は結局、あのまま何も言うことはできなかったままだ。
シトシトと地面を黒く、景色を白く滲ませる雨が、夏に向けて上昇を続ける気温に晒された肌を冷やす風を作り出す。
それに触れているせいか、有り難く冷たい窓のガラスに黒衣のまま額を押しつけて、昼子はため息をついた。
6月も半ばになった。7月を過ぎれば、昼子が待ち望み、恐れている8月がやってくる。
…やってきてしまう。
震えているのは、雨に冷やされた風のせいではないだろう。
***
19時過ぎ、いつもとは違い手荷物をもって、玄関先に現れた宮田に、
昼子は意外そうな顔をしながら「おかえりなさい」と荷物を受け取ろうと手を伸ばした。
なんとなく、昼子には宮田は手荷物を持たず身軽に歩いていくようなイメージがあった。
だから、片手には紙袋、片手には大きな包みを持っている姿が意外で、何を持っているのか興味もあった。
受け取ったのは大きな包みのほうだった。
包装紙がガサッと音を立て、細く握られていた場所を持って広がったほうを、目の前へと向けてみると、
色とりどりの花が顔を見せる。花束だ。
それを確認して、靴を脱いでいる宮田がいまだに片手に持っている紙袋を覗いてみる。
持ち手のついた上に開いたところから見るに、綺麗な包装紙に包まれた箱がいくつか入っているらしい。
ああ、そうか。
「食事はどうしました」
「…まだ」
「そうですか」
それだけ会話をして、宮田は家のなかへと入って行ってしまう。
昼子はその場に残ったまま、手に持った花束を眺め、黒衣を捲ってその明るい色合いを確かめる。
薄く色を霞ませていた布が取り払われると一層、ひしめきあったそれは、明るい姿を見せた。
花束。
恐らく病院で受け取ったのだろう。ほんのすこし、花弁が柔らかくなり、上に向けていると開ききってしまう。
それでも十分に綺麗な色の組み合わせをしていて、昼子はそれを見つめながら暗澹に思う。
場違いとは思わなかった。だが、世界と自分の間の隔絶をまざまざ見せられた気分になった。
誕生日。
それはとてもライトに祝うことのできる祝い事の一つのはずなのに。
明るい花束。祝福のカード。色鮮やかな模様に彩られた包装紙。それらを見ていると、
朝から悩んでいる自分は一体なんなのだろうと思う。
***
花束を下げ、花弁を保護するように下に向けたまま昼子も遅れて宮田に続いた。
夕方、宮田が雇っている手伝いの者が作った夕食を温め、食事を始める。
花束はとりあえず包装紙を外して水へとつけた。あとで水切りをして花瓶に活けよう。
そう決めた昼子は、床に無造作に置かれている宮田の手のもう片方にあった紙袋を横目に宮田に尋ねた。
「あの、今日は…」
「ああ…なんでもありませんよ。あれは」
あれは、と言いながら宮田の眼が紙袋へと向かう。
「プレゼント、では?」
「…そんなことまで知っているんですか、貴方は」
“知っている”昼子に向かい、目を細めた宮田は、眉を顰めて苦いものを無理やり飲み込むような顔をしたあと、
スッと消化して、無表情になって言う。
・・・・・・
「そうです。だから、なんでもない」
「……」
「あれは、“宮田司郎”へのプレゼントですから」
昼子は何か言おうとして、口を噤んだ。
忌々しそうにでもなく、そうしてするりと言う宮田に対して言いたいことはあったが、言葉が見つからなかった。
“貴方が宮田司郎じゃないか”そう言うことが正しいのか。ただ、ひたすら残酷だということだけはわかる。
けれど、喉を震わすものが、独りよがりかもしれない、と昼子は思いながら、舌に言葉をのせてみる。
「私は、」
紙袋を見ていた冷たい目がこちらを向いて、細切れになった言葉を貫いた。
まるで、貴女もそれを言うのかと。
「私は、貴方に会えて感謝しています」
「……」
「これは、なんでもない日にだって、言っても構わないと思うんですが…」
目を伏せた宮田は、居心地が悪そうに、目を横へと逃がし、
黒衣の下から確かめるように覗くまっすぐな眼から逃げようとしてから、味噌汁を飲む前に一言、
「ありがとうございます」
それに、頷くだけ頷いて、昼子は黒衣を小さくめくり、食事を再開しだした。
今だけは、鮮やかな色を無くす、この薄い黒い布に感謝して。
書きたいものを書きたい時にが基本スタンスという名のイベント忘れ野郎イグイですが、
6月13日は前々からいろいろ抱えてたので、ここで昇華したいと思います。
ギリギリなのは、お酒が入ってるのに、連載をここの時間まで持って行きたかったので粘ってたせいです。
希望(理想)という名の絶望(作業)。
宮田は手荷物を持たず身軽に歩いていくようなイメージっていうのは、
脳波計とかジュリ缶とか蛍光灯とかのせいです。