「貴方に会えて良かった」






その横顔の頬は―――――――――赤く、赤く、
彼女は一回、ぶるりと震えて、そしてその場から駆け出した。
――――――――けれど、すぐに回りの目を気にして普通に歩き出す。

そして、赤い頬をさらに赤く、赤く、噛み締めたように微笑んで、町を歩いていく
―――――池袋を歩いていく。












入学式から早くも一週間が過ぎ、学校生活は大体のパターンを持って繰り返される、ある日のこと。
今日は一時間目から体育の授業が予定されており、は憂鬱な思考のまま体操着へと着替えていた。


(運動は苦手)

彼女は運動が苦手だった。

生まれ持った身体能力云々が原因ということも少しはあったが、人前で身体を動かし評価を得るというのが嫌だった。
ここまでくると彼女の対人恐怖は、いっそ潔いほどの性質なのかもしれない。
動きやすい半そでのTシャツに、ハーフパンツ、少し寒いので周りのクラスメイト達も着ていることを確認し、 長袖のジャージを羽織った、はクラスメイト達に紛れてグラウンドへと移動する。 今日の科目はオリエンテーションの次ということもあって、体力測定の意味も含んだ、マラソンだ。

(マラソンって、最後のほうになると口のなか血の味がするんだけど、なんでだろう?)

産まれた疑問を包むように頭のなかで小さな泡が産まれる。けれど、答えは見つかりそうもなかった。
一度は壊れたけれど健気な獣が「そんなこといいから、とりあえず先生の話を聞こうね」と泡達を窘める。



彼女は、この思考形態を疑問には思っていない。
恐らく他人はこんなふうに物事を思考してないかもしれないという思いはあったが、 人間が他人の頭の中までは覗けないということは、他人の頭の中に恐怖する彼女が重々知っていたので、 特に負い目にもなっていなかった。



炭酸の抜けたサイダーのように、時折思い出したように零れ落ちる小さな泡を自覚しながら、
まだまだ寒い4月というのに半そで、半ズボンの体育の教師の事前の説明を聞き、はあるひとつの言葉に固まった。



「それじゃあ、男女別れて“二人一組になって”準備体操な」



生徒に混じって自分も走るつもりなのか、その場でスクワットをし始めた教師を見ながら、は顔を引きつらせる。

“二人一組”

それはなんて残酷な言葉なんだろか。
いっそのこと、教師の一存で事前に組まされているほうがありがたいものだ。――――組む相手が見当たらない者にとっては。


(横暴だよ!)(勝手だよ!)(いや、仲良い人たちには楽しいのかも)
(仲良い人作れよ!)(ごめん・・・)(バルス・・・)(滅びの言葉!?) (同意義…)


入学式から一週間、に友人と呼べる人は居なかった。
アドレスを交換したりだとか、帰りに隣の席になった子に遊びに誘われるということはあったが、まだ友人とは呼べない間柄であり、
その子達は、自分と組むくらいなら、もっと組みたい仲のいい友人がすでにいるというこの現状。は怠惰な自分の社交性を恨んだ。

そして、焦りを隠さない顔で辺りを見渡した。
その心は、「もしかしたら奇数の仲良しな子達がいるかもしれない」という打算的な思いからだったが…



しかし、


の周りは、まだ、宣言されて一分も経っていないというのに、綺麗に偶数ばかりのようにみえる。



(あれ?)



まるで、自分が立っている30平方センチメートルの地面のほかが崩れて断崖絶壁になったかのような気持ちになる。
え、なにこれ、早くね? ますます焦ったは回転される頭で、自分のクラスの全員の数が偶数であることを思い出す。




今日は休みも居ない = 余りはでないはず、




の目はまるで捕食者にどこからか狙われている小動物のようにくるくると回る回る。





どこだ・・・!?私と同じ余り者はどこだ!!?




―――――なんとも悲しい思いだった。
そして、男女別だというのに、一緒に組んでいる最近学校へと復帰しだした所謂バカップルの近くに、 一人でポツンとしているらしい人影を見つけた。 クラスメイトの一人ともうすでに組んでいるらしい竜ヶ峰君が話しかけているその人影は・・・



「園原さん、一人なの?」

「はい、余ってしまったみたいで・・・」

「あれ、可笑しいな、ウチのクラスって偶数だよね?休みいないし」

「そのはずなんですが・・・」




園 原 さ ん !




三度目の正直だった。

はごくりとツバを飲み込んだ。
入学してからなんども勇気を振り絞って話しかけようとしていた人物との会話が、今になって最大のチャンスで訪れた。

そろそろ、全員ペアができたかなーと辺りを見渡している教師を見て、
は、園原さんのところへと急いで駆け寄ろうとして・・・彼女は少し考える。

(どうしよう。私が誘うべき?)

このまま突っ立っていても、それぞれ一人の私達を見つけた教師が二人で組むように指示を出すだろう。
いや、その前に園原さんが私を見つけてくれるかもしれない。何時も受身な姿勢が染み付いてしまっていた彼女はそう思う。
結果は同じなのだ。結果、ペアを組んで、話をして、もしかしたら、友達になれるかもしれない。



(けど、)


(けどね、)


彼女の足は動き出す。はこの前知ったのだ。


(私のこんな小さな歯車だって何かを回すことはできる!)

((((そうだね))))


は自分の憂鬱を払ってくれた人物に蝶ネクタイを届けられたこと、 それによって、その人を笑顔にできたこと―――自分の歯車が何かと繋げられたことを嬉しく思った。 だから、人が怖い彼女は、人を怖がりながらも、手を伸ばす―――――。



「あの!園原さん!私と組んでくれませんか!!?」



歯車は自分だけでは意味がないのだから。



















余談だが、この現場を間近に見ていた竜ヶ峰少年、その他大勢は、あるひとつの感想を胸に抱いた。






(・・・清いお付き合い?)


性別はもちろん、台詞もまったく違うのだが、 90度に背筋を曲げ、手を前へと差し出し、ギュッと目を瞑ったその姿は、まさに、それ。 だが、それは周りの感想であって本人達は気づかない。

「私でよかったら」


言葉に笑顔で答えて、その手を取った園原杏里。そして、泣きそうなほど顔を赤らめて笑った
“なんとも言えない”雰囲気がその場を包んだ。
そして、その雰囲気は体育教師の「そ、それじゃあ準備体操やるぞー」という言葉までそれは続くことになった。





対人恐怖症娘、一歩、前進。

***

所、時刻、共に変わって・・・




“なんとも言えない”といえば、池袋の60階通りを闊歩する平和島静雄の心中も、なんとも言えない気持ちが渦巻いていた。



今は仕事中―――テレクラの料金を回収する仕事で、移動中なのだが、いつもは 気だるそうに歩いている静雄が今日はなんだが可笑しい。 眉間に皺を寄せ、急に早足になったかと思えば、急にその場に立ち止まる。 道の途中にある標識を握り締めて、その強靭な力ゆえ、手跡を残し、時には壁に頭突きを繰り返す――――奇行。

仕事に同行している田中トムは、一体これがなんの前触れなのか、いつも以上に彼を刺激しないように務め、静雄を見守った。

が、しかし、今まさに、コンクリートの壁をまるで砂糖で出来ているかのように粉砕した静雄を見て、見守るのは限界だと悟った。
彼は、壁を全く見ずに、ただその場にあったものを軽く叩いたかのような行動で、壁を粉砕してしまっていた。
おそらく、これは無意識な行動らしい。このままじゃ、傍にいるだけで、何があるかわからない。

少し早かったが、静雄をマックへと誘い、昼食をとる。
そして、彼を怒らせないように最低限な、しかし、厳選した言葉で問いかけた。


「今日は、どうしたんだ?」

「え?なんスカ?」

やはり、あれらは無意識な行動だったらしい。もふもふとハンバーガーを食べる静雄は一見普通に見えるし、 凍えるようなあの圧倒的な怒りの気配も感じない、怒っているわけではなさそうだが・・・
田中トムは、公共物を破壊してきた過程には敢えて触れず、アイスコーヒーを飲みながら、再び問いかけた。


「いや、今日なんか様子が可笑しい感じだったからよ。昨日の夜なんかあったか?」

「・・・・・・。」

どうやら、当たりのようだった。
食べていたハンバーガーをトレイに置いて、考えをまとめることに集中しだす、 そのとき、トムは見ていたのだが、静雄が考え込んでいる間、彼が手を置いていたトレイが凄まじい勢いで変形していた。 思わず、静雄を確認するも、やはり怒ってはなさそうな雰囲気だった、首を傾げる。―――――むしろ、これは、


機嫌いいほうなんじゃね?


「・・・あの、トムさん」

「なんだ?」

「この前、ネクタイを無くしたって愚痴零したの、覚えてます?」

「ああ、」

平和島静雄がいつもバーテン服を着ているのは理由がある。
それは、いつもこの怪力故、仕事が儘ならず、クビになってしまうことが多い彼が、ある時バーテンの仕事に就き、 それを祝った彼の弟が、「仕事が続くように」とバーテン服を大量に送ったことにある。 その後、彼はあるノミ蟲のせいでバーテンをクビになってしまったが、弟から送られたバーテン服は大事に着ることにした、ということだ。

彼は、このバーテン服を大事にしている。
いくらストックがあるといっても、ほかの奴らに汚されたり破かれたりしたら、彼は烈火のごとく、というより、噴火するかのごとく怒る。 それがこの前、バーテンをクビになったときの原因であるノミ蟲が再び彼の目の前に現れ、 彼は潰そうと奮闘し、結果、ノミ蟲は逃がし、バーテン服の一部である蝶ネクタイを無くす、という事態に陥った。

凹んだ。彼は凹んでいた。
やっぱりストックはあるものの、他人により無くなったのではなく、自分で無くしたというのは堪えた。
しかも、蝶ネクタイは赤と黒の二種類あって、無くした黒いほうは、ラスト1つだった。


「それが、見つかったんです」

「へぇ、それは良かったな」

「・・・はい」

「?」

歯切れの悪そうな静雄。今だ握られたままのトレイが僅かに悲鳴を上げた。話は、これかららしい。


「わざわざ拾って届けに来てくれた子がいて・・・昨日俺に届けてくれました。」


ああ、なんだ。
思わず笑ってしまいそうになる。
平和島静雄という男は怒ったときを除けば、不器用なただの男だ。 それを知らない一般人は彼を恐れて近寄らない。ゆえに彼は嬉しかったのだろう、そんな少し古いが、あたりまえのような親切をされて。


「それで・・・あの、訊いてもイイすか?」

「ん?」

トムは、静雄の可笑しな行動の理由を知って、心のなかで「まぁしょうがないか」と今日一日気をつけることで、 彼の無意識な行動を容認しようと、腹を括ることにした。アイスコーヒーを飲んで、今まだ知らないが、その質問に答えたら、 仕事を再開しようと、返事を返す。

だが、話はこれからが本題だった。

「その子が「貴方に会えて良かった」って言ってたんですけど、コレって、忘れ物を渡せて良かったってことでいいんですかね?」

「・・・・・・あー」


おずおずとしている池袋最強を前にして、田中トムは思った。




世間は、春だもんなぁ。




***

無くなったと思っていた蝶ネクタイが見つかった日
自動喧嘩人形は考える。



「貴方に会えて良かった」


そう、笑った少女は、泣きそうで、けれど、これ以上ないほど嬉しそうだった。

自分が何も言わなかったせいで、勘違いをして悲しそうに俯いた少女をなんとか励まそうと、 壊さないように、ほとんど触るか触らないかくらいの力で、撫でた、その後のことだった。


“貴方に会えて良かった”


これが逆の意味なら、彼は直ぐに理解することが出来ただろう、 自分に対する言葉の攻撃、自分に対する否定、それらに直結している自分の怒り。 けれど、今の言葉は違う。言うならば、自分に対する好意、自分に対する肯定。

それらは、一体自分の何処に繋がっているのだろう。彼にはわからない。
それを知るには、彼には経験が足り無さ過ぎた。




そして、彼は、それを知りたいと思った。




けれど、その言葉を最後に、少女は、自分の言った言葉がスイッチだったかのように顔を限界まで赤らめて、 一礼してその場から駆けて行ってしまう。その足は速く、まるで逃げ道を考えてあったかのようにすぐさま姿を消した。 ある意味、思考が麻痺していた彼は、とっさに走り去る背中に手を伸ばすくらいしか、行動できなかった。

名前を叫ぶにも、彼女の名前は知らない。というか、今日会ったばっかりで、というか、

昨日のこと知ってるってことは、力のことは、やっぱり知ってる?俺のこと知ってるんだよな?
何で、それなのにわざわざ直接届けてくれたんだ?

“会えて良かった”ってなんだよ?怖くないのか?
力のこと知ってるんだよな?

自動販売機とか投げられるんだぞ?


見たんだよな?


待ってくれ。


それは、どういう意味なんだ。止まってくれ。・・・なんなんだよ。・・・なんなんだよ!!




















「オー!シズーオー。スミな男ネー。スミに置けないネー。スミなのにスミに置けないってどういう意味?」



















アアアアアアアアアァァアアアアアアアアアアアアアアアアアァアア!








混乱も煮詰まった平和島静雄はその場にあった自転車を持ち上げて、自分の傍で“罪”と“隅”を混同して、 首をかしげているサイモンに向かってぶん投げた。 そして、サイモンはそれを受け止め、直す、なんども、なんども、なんども・・・その喧騒は夜の池袋に飲まれていった。



そして、自動喧嘩人形は、朝になっても、少女の言葉が忘れられていなかった。

彼は何度も思い出す。そして混乱する。思わず上司に訊いてしまうくらい。


“貴方に会えてよかった”

その意味を知りたいと―――――

***






回る回る、町は、時は、彼女は、世界は、




大きな歯車と、彼女の張り付けたような小さな歯車と、




そして、壊れて怪我をした獣は、恋しくて叫ぶ叫ぶ叫ぶ、




あああああああ、知リタイ!






***






そんな彼女は自らの歯車によって動いた事態など知らず、
前屈の準備体操で、園原杏里の背中を押しながら、は小さな自分の一歩にホッと息を吐いていた。


(声、かけることできた)



(良かった)(やればできるじゃん)(いや、普通のことだけど)(一歩前進!)
(誰だよ、空気読めない奴)(わたしだ)(お前だったのか)




(それもこれも、きっかけをくれた、あの人のお陰だよ)
しみじみと、獣が言う。




(そうだよねぇ・・・)
(結局、あの人のこと何も知らないまま)(知りたいね)(けど蝶ネクタイ返しちゃったね)(きっかけが・・・)(しょんぼり)
(今度見かけたら声かけてみるよ)(おお!)(大胆!)(お前誰だ)(わたしだ)(いいや、わたしだ)(お前だったのか)







「あの、さん?」



「あ!はい!?なんですか?」

「交代みたいですよ」

「・・・すいません・・・あ、じゃあ、お願いします」





園原杏里に背中を押されて、自分の身体の硬さに嘆きながら、彼女は思う。





(・・・まぁ、それは置いといて、今は・・・)(園原さん)(だよね)

(私は、園原さんと、友達になりたい・・・)




(どうすれば・・・)










「あの、さん」



「はい!?交代ですか!?」

「あ、そうじゃないんですが、



 良かったら、なんですが、私と・・・その、友達になってくれませんか?」



「!!??」



思わず、は身体を起して、杏里に振り返る。

「友達・・・ッ」

「はい、私なんかじゃ嫌かもしれないですけど・・・」











(会議は?)(会議室で起きてるんじゃない!)(((賛成)))(んじゃ、満場一致ってことで)(無視!?)








「、、、よにょ・・・よろこんで!!」


噛んだ。


噛んだ憂鬱もどこかで感じていても、彼女は今、幸せ順風満帆である。

















彼女の歯車は、小さく小さく、まるでシールを張り付けたようだけど、確かに何かを回せる。




今から、彼女の歯車は様々なモノを回し始める。ぐるぐるとぐるぐると。



あるいは彼女もあるいは彼も。



ぐるぐるぐる、ぐる、ぐるるるる、ぐるりぐるり、